講座の内容記録 2009

舞台芸術論
『ワークショップ論 ― 演劇ワークショップの力』
Vol.8「ディスカッション」
 
2010年1月24日(日) 15時45分〜17時45分
高尾 隆
(東京学芸大学芸術・スポーツ科学系音楽・演劇講座演劇分野特任准教授)

《所 感》

今回はこれまでのワークショップ論を踏まえたディスカッションセッションである。参加者がグループに分かれて話題を出し合い、討論するという形式であった。多くの話題が「ワークショップの定義・意義」というところに集中したが、世田谷パブリックシアターで「ワークショップ論」をやることの意味や、場の性格についても多くの意見が出された。中でも、こうした場についての閉鎖性・開放性の問題が多かった。

記録者は、こうした閉鎖性の問題も重要であるが、それ以上にワークショップの意義も重要であると考えさせられた。現在、多くの劇団がワークショップを行っているが、それは多くの場合入団テスト・オーディションの代用であり、なかなか社会的意義を問うというところまで至らない。また、ディスカッションの中で出た、ビジネス系・コミュニケーション系との差異をどう考えるかという問題もある。こうした問題は、今後さらに考えられるべき問題であると思わされた。
記録:梅原宏司(早稲田大学演劇博物館GCOE特別研究員)
ディスカッションセッション
クジで4人程度にグループ分け(インディアンポーカー)。
言葉を使わないで視線やしぐさでグルーピングする。

このグループで自己紹介したのち
  1. この講座で何を聞いたか
  2. 上を受けて思ったこと、考えたこと
  3. このセッションで何について話し合いたいか
を共有する(10分のち延長)。この段階ではまとめずに意見を出しあうのみ。

それぞれのグループでひとりだけ残り、あとは散る。
残ったメンバーが新しく残ったメンバーに話していたテーマを伝え、新しく継続する。
(ワールドカフェ方式)

もう一度移動(残る人は変わる)、今度は全体ディスカッションで話しあいたいことを決める。
●各グループから出たディスカッションしたいこと
  1. 結局「ワークショップ」的とは何か?
  2. 「ワークショップは開かれた場である」が、「ワークショップ論」の場は何だろう? ちょっと特殊な人の集まりのような気がした
  3. 目的に応じた進行役としてプロデュースするファシリテーターをどう育てていけば いいのか?
  4. 次にこのような公開講座をやる場合どのようにやるか?
    また進行する人と主催者が別の場合複雑な問題が生ずる場合があるが、 その間の出会いについてどう考えればいいのか?
  5. ワークショップ? とらえにくさ・とっつきにくさはなぜ生ずるか?
    主宰者もワークショップの参加者なのか?
  6. ワークショップの必要条件(前・中・後)は何か?どう広めていったらいいのか?
高尾:グループ間で共通するところが多い。
ワークショップの定義(しかも多くは集団などの関係性)についての問いが多い。
●ディスカッション
  1. いろいろなところで「ワークショップ」という言葉が出てくる。デパートの講習会に まで使われている。この国で「ワークショップ」という言葉は定着しているのか?
    またどのように流通しているのか?
  2. ワークショップ本来の意味は定義できないのではないか?その都度進行役が説明・議論 すればよいのではないか?別に「講習会」でもよいと思う
  3. 演劇の世界で「稽古」という言葉を使うが、ジャンルや場所によって全然違う。
    ワークショップとはそれに近いのではないか?
  4. 稽古は「やる」という行為が入る
  5. ワークショップとは「仕事場」「作業場」の意味であって、演出のいいなりになっていてもワークショップである。過剰に思い入れを持っているとかえって伝わらない
  6. 稽古にも頭や体をフル回転させて疲れる場合もあるし、疲れないものもある。
    ワークショップもそれと同じだと思う
  7. 初回に「ワークショップという言葉が一時に比べて使われなくなり、プロジェクトなどと 言われる」という話があったが、水俣ではプロセスは話し合いでやっていくのだが、ある ところから演出担当が整理して作品に仕上げていくということがあった。

    プロジェクトというとまとまってしまって、ひとりの作品として受け取られるが、 ワークショップといった場合、演出の独裁でなく集団制作という局面が強く出ると思う。

    だから意思決定においてどうやって集団性を徹底するかということが大事だが、 それをやっていると永遠に終わらないという悩みがある
高尾:「ワークショップ」を存在的・機能的にとらえる場合と、理念型・当為的にとらえる 場合があるが、今までの場合は理念型・当為的な説明の試みが多かったと思う。
  1. 「学校的でないもの」という説明の仕方がある。先生→生徒関係というものではないという ことだが、「○○はワークショップではない」というこだわりはみんな持っているのでは ないのか?
  2. 自発的、インタラクティブであることはみんなの間にコンセンサスがとれているのでは?
  3. 世田谷パブリックシアターでこうしたことを議論するという意味を考えたい。
    世田谷スタイルのワークショップ(80年代のアジア演劇)と他のスタイルは同じなのか という話もあるし、中野民夫さん(ビジネス系)や平田オリザさん(コミュニケーション系) の「ワークショップ」と同じなのかという問題もある
  4. 「この場の特殊な雰囲気」ということだが、「そもそも演劇の世界が特殊」という意味と 同様だと思う
  5. 中野、平田は有用性・機能的合理性を期待しているが、ここで議論しているワーク ショップはそういう意味での有用性・機能的合理性はない
  6. 世の中にない実験の場というところもあるし、安全な場というところもある。
    演劇と似ている
  7. しかし劇場演劇の演出家には、あるアイデアがあって実現しようというところがあるが、 ワークショップの場合は事前にあるアイデアを実現しようというところはない。それは マニュアルとか知恵がないというのではなく、ファシリテーターの即興性に関わっている
  8. ブレヒトの教育劇、PETAの教育演劇という「教育」の用法は非常に興味深い。
    その場合の「教育」「演劇」という言葉を脱構築するという試みを考えてみる必要がある
  9. やはりPETAのスタッフとの関係と、日本の劇団の関係性はかなり違う
  10. 演劇をやっている人への偏見というのはあるが、そういう「偏見」はどうなのか?
    表面的な偏見というのもあるのではないか?
  11. しかし演劇人はしばしば自分の殻から出ることを恐れている人がいるが、ここの人々は 自分が変わることを恐れない気がする
高尾:物差し自体を疑ってかかるというところが「ここに集まっているワークショップ論 参加者」にあるのではないか?
●ネクストステップに向けて…何をしたらいいか?
  1. PETAの用語集のようなものを作ってほしい
  2. 事前知識がなくてついていけなくなったところがあるので、凡例・文献目録的なものが ほしい(電子辞書では対応できない用法がたくさんあった)
高尾:枠組み自体を問わなければならなかったので、そういうことが難しかったところもある。
  1. 演劇ワークショップのファシリテーターができる人がもう少し増えてほしい。それには、 イメージができていたらできるが、そうしたイメージができる人はできない。そうした イメージを持たせられるようなプログラミングをしてほしいと思う。
    自分は日本では演劇体験がなく、PETAを体験して初めてイメージが持てた
  2. この場とは何だったのかという話だが、映像でこの場にいない人が出てきたりすると 笑いが起こるような状況というのはなかなか特殊だと思う。自分は劇場演劇の上演のこと も考えているので、どうしてもそのような閉鎖性のようなものが気になってしまう
  3. 関心のレベルによって分けるやり方がいいと思う。今回はかなり高度な研究会的なところ だと思った。しかし分け過ぎてもどうかと思うし、混ぜる考え方もありうる
  4. 理論だけ聞いていると確かに遠く感じたが、実践例(水俣やアチェなど)で社会との関わり を知ることができたのは大変よかった
  5. 参加者がどのように感じたり考えたりということ、またその効果などが聞ければ、 もっとよかったと思う
  6. でも実際にはいわゆる効果というのはなくて、やはり自分が変われるということ、 そのきっかけとかその気にさせるような事例集があったりするといいかもしれないが、 参加している人の中にそういう気があるかというところからが問題だと思う。 みなが役割を演じているということを今回明確に感じられたのがよかった
高尾:元来世田谷パブリックシアターのワークショップでは、「ふりかえり」というのは非常に 深くて、1つの「?」が3つになったりすることがあるが、結局そうなって面白かった。