講座の内容記録 2009

舞台芸術論
シリーズ講座『舞台芸術の現在』
Vol.1「管理国家とクリエイティビティ―シンガポールの現代演劇」
 
2009年9月18日(金) 19時〜21時
滝口 健
(シンガポール国立大学)

《概 要》

シンガポールという国のことを、私たちはどのくらい知っているだろうか。本講義は、シンガポールの 現代演劇を通して、シンガポールという国について理解を深めるものだった。シンガポールの歴史の 説明の随所で紹介される演劇作品は、その時々のシンガポールの社会を映し出している。20年前には、 フィリピン人メイド問題を扱った作品について、上演劇団メンバーが告発・逮捕・拘留された。今日では 同じ問題を扱った新作が、政府の支援を受けている。その間には、シンガポールの芸術政策の大きな 転換があった。芸術を国家のイメージ形成に活用し、才能ある人・人的資源をひきつけたいという都市 国家シンガポールの生き残り戦略が背景にある。

演劇作品においても演劇を取り巻く芸術政策においても、どうしても情報が欧米に偏りがちな中にあって、 アジアの都市国家・シンガポールの演劇と社会についてまとめられた本講義の内容は大変貴重な内容となっている。
記録:中村美帆(東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻博士課程)
1.シンガポール概要
  1. 面積は698平方km(東京23区とほぼ同程度)
  2. 国土は島で、2つの橋でマレーシアとつながっている
  3. 人口は2008年現在で460万人
    1番多いのが中東系で59%、マレー11%、インド7%、その他2%、加えて外国籍が約101万人、人口の22%を占める
  4. 多文化共存で公用語が4つ:中国語、マレー語、タミル語、英語
    できるかぎり4ヶ国語を併記して平等に使う方針をとっている
  5. 第三次産業の割合が21.7%と高い一方、第一次産業は1%未満で非常に少ない
  6. 第二次世界大戦後にマレーシアから分離独立
<作品紹介:Separation40(2005・公演記録映像)>
ネセサリー・ステージ(シンガポール)/ドラマラボ(マレーシア)共同制作。
マレーシアからシンガポールが分離独立して40周年になるのを記念して両国のカンパニーが共同制作。 40年を経てお互いだいぶ違う国になっていたことを比べながらそれぞれの現状を笑う。 さまざまな言語がまざりあうセリフ構成になっている。
2.シンガポール前史:独立まで
シンガポールは、基本は移民の国としての歴史を持っている。
(1) 16世紀以前:マレー人の移住
ジャワあるいはスマトラから渡り、15世紀にはマラッカ王国成立イスラム商人を取り込むために国ぐるみでイスラム教徒に改宗
(2) 16-19世紀:植民地勢力の進出、華人・インド人の流入
欧米列強の植民地下での労働力として流入
シンガポールは、ペナン、マラッカとともにイギリスの直轄統治を受ける
植民地政府の統治方針は分割統治
マレー人・華人・インド人がお互い接触する機会がない
→ 現代まで続く、「マレーシア型多民族社会」ともいわれる民族状況のルーツとなる
(3) 20世紀前半:日本による占領とナショナリズムの高揚
マレー半島東側のコタ・バルへの日本軍上陸は真珠湾より早かった
日本軍はシンガポールまで占領して軍政を敷く
方針としてはイギリスの統治政策を継承し、分割統治
マレー人はスルタンの勢力を温存して優遇
本土とのつながりを持ち政治意識が高かった華人は弾圧・虐殺
インド人には本国でイギリス帝国支配に反対する運動を起こさせる
→チャンドラ・ボースによるインド国民軍創設を支援
よって捕虜虐待に対する反日的な感情も複雑である
教育はしっかりしていて、日本占領期の知識は国民の一般常識になっている
(4) 第二次大戦後:独立=マレーシアへの合流と離脱
(1) マレーシアの独立
マレーシアで3大民族(マレー、華人、インド)が各自政党を作り連立政権発足
連立政権のイギリスとの交渉により1957年にマレーシア独立を達成
最初に移住してきたマレー系の特権を憲法に明記
その上でそれぞれの民族がすみ分けて共存するマレーシア型多民族国家へ
(2) マレーシア独立当時のシンガポール
この当時のシンガポールの扱いはセンシティブだった
当時からチャイニーズが多い
→ シンガポールを加えたマレーシアの独立では、マレー系とチャイナ系の人口比がほぼ等しくなり、 マレー系優位が崩れてしまう。マレー系はシンガポールを排除する形での独立を選択。
シンガポールはイギリス植民地に留まるが、独立の機運は高まっていた
(3) シンガポール独立
1963年にシンガポール独立
選挙の結果、独立直後にマレーシア連邦に参加
初代首相リー・クワンユーの政策「マレーシア人のマレーシア」
(=マレー/チャイニーズ/インディアンではなく、マレーシア人としてのアイデンティティを持ち統一した国を作っていこう) → マレー優位のマレーシアの政策と真っ向から対立するマレーシア連邦から追い出される形で1965年に分離独立

独立の会見でリー・クワンユーが泣いたというエピソードが残っている
以降マレーシアとシンガポールは隣り合いながらライバル視しあう関係へ

シンガポール:都会的で官僚的
マレーシア:田舎であったかく万事がおおらか
その後もシンガポールは、イスラム教国に囲まれたチャイニーズの国という 潜在的な危機感を持ち続けることになる。
3.シンガポールの現代演劇:独立以降に紆余曲折を経て発展
シンガポールは、独立直後から自分たちの生存に危機感を感じていた。「警察国家」とも 呼ばれ、いまだに厳しい検閲制度が残るシンガポールでは、演劇と政治とは切っても切り 離せない関係にある。シンガポール演劇も政治との結びつきあるいは対立、緊張関係を強いられる ことになった。シンガポールのアーティストは好むと好まざるとにかかわらず政治との関係を 常に考えざるを得なかった。それこそがシンガポールの現代演劇史であるといっても過言ではない。
<作品紹介:「モバイル」(2006・公演記録映像)>
シンガポールの劇団ネセサリー・ステージの制作

アジアの移民労働者をテーマにした4つのエピソードからなる作品。そのうち、シンガポールに おけるフィリピン人メイドに対する雇い人の虐待を扱ったエピソードを紹介。シンガポール、 フィリピン、タイ、日本の4カ国の共同制作。シンガポール・アーツ・カウンシルが出資した フェスティバルのメイン作品で、日本のセゾン文化財団も支援した。2年間かけて聞き取り調査を 実施して制作。シンガポール政府の支援でマレーシア(クアラルンプール)公演も実施された。 内容は、シンガポールの雇い主が妊娠が発覚したフィリピン人メイドを生まれてくる子供に 出生地国籍を与えないために国に送り返す、その際シンガポールへの渡航費が雇い主から メイドに請求される問題を告発するもの。
<作品紹介:「エスペランザ」(1986・戯曲のみ)>
シンガポールの劇団サード・ステージの制作
フィリピン人メイドに対する偏見と不信を語る雇い人とその友人の会話部分を紹介。
1986年の「エスペランザ」と2006年の「モバイル」は、どちらも告発する対象は同じだが、政府の 対応は異なっていた。「エスペランザ」を制作したサード・ステージのメンバーは、文化的な 差異ではなく階級の問題を扱った共産主義者とみなされ、上演の翌年に治安維持法にもとづき 告発・逮捕・拘留された。その後長い間フィリピン人メイド問題を扱う戯曲はつくられなかった。

両作品の間にはたった20年しか流れていないが、その間に政府の芸術への対応は180度転換したことになる。
◎ 現代演劇への政府の対応 〜 シンガポールの芸術政策
(1) 独立直後―1980年代
独立の年にシンガポール舞台芸術学院という学校を設立。 アーティストが農村や漁村にでかけて生活を共にしながら作品を作る活動も行った。
<作品紹介:「太陽の中の葡萄」(1967・写真のみ)> など
クオ・パオクン制作
左翼的な階級闘争を前面に押し出す内容で、当時政府が進めていた外資導入による経済発展戦略に 押しつぶされる人民の姿を描いた。世界的に広がっていた新左翼運動と呼応した公演はマレー半島でも 反響が大きく、マレーシア北部から車で作品を観に来た例もあった。

リー・クワンユーは左翼を追い落としにかかった。1960年代終わりには、リーの一党独裁が完成し、 以降左翼的な動きは徹底的に弾圧という強権政治が敷かれた。クオ・パオクンも1976年に治安維持法で 拘束、1980年まで投獄され、1992年まで公民権は回復されなかった。1960年代後半に左翼中国語演劇は 壊滅的な打撃を受けた。当時主流だった中国語演劇に英語派がとって変わり、英語教育の浸透とともに、 中国語演劇は少なくなった。

シンガポール政府は英語をだれでも話せるようにするに言語政策を開始した。
  1. 1959年:二言語政策
    英語=各民族をつなぐ「リンク・ランゲージ」 / 母国語 = 民族のアイデンティティ
  2. 1980年:南洋大学(中国語)がシンガポール国立大学(英語)に吸収される
  3. 1980年代半ばまでには英語がほぼ唯一の教育用語となる
それに伴い、表現の言語も中国語から英語へ、1980年代に明確に変わっていった。左翼中国語演劇は 失われたが、今度は英語を媒介にして、社会に問題を提起する演劇が起こってきた。「エスペランザ」を 制作したサード・ステージはそのパイオニアで、もっとも影響力を持った劇団の一つである。ただし、 クオ・パオクンと比べると、マルクス主義的な階級闘争のにおいはほとんどしない内容となっている。 それにもかかわらず、「マルクス主義による政府転覆の陰謀」という名目でサード・ステージのメンバーを 拘束したところに、リーの左翼勢力への根強い警戒感を見ることができる。

リー・クワンユーの強権を支えたのは、シンガポールの高度経済成長だった。マレーシアから 切り離された時点で、通商国家として生き残りをかけるしかなくなったシンガポールは、東南アジアの 中でいちはやく経済発展を遂げた。独立当時はUS500ドルだったGDPが15年後・1980年代には 10000ドルを突破した。

しかし1980年代にはリー・クワンユー的なやり方に限界もみえてきた。1984年の総選挙で リー・クワンユーの与党PAP(ピープル・アクションズ・パーティ)は得票率を大幅に落とした。 高等教育を受けた中産階級が経済成長によって成立し、強権的なやり方にノーを突きつけた。

シンガポールは1985年以降大きな景気停滞に直面し、製造業から第三次産業への転換、 高付加価値産業へのシフトで生き残りをはかることを迫られた。その結果、当時数が 増えていた、海外留学からそのまま帰ってこない頭脳流出の問題への対応が必要と なった。海外で表現の自由・言論の自由を謳歌した人がシンガポールの統制を嫌って 帰ってこないという状況が明確になったのが1980年代である。シンガポールの若者の 半分以上が、海外への移住を考えたことがあるという調査結果もある。彼らは英語で 教育を受けているので、移住への抵抗も少なかった。

こうした状況下で、リー・クワンユー限界説が国内外でとなえられるようになった。 「警察国家」「管理国家」というイメージを払拭し、中産階級市民の言説空間を 拡大していくという方向性を示す必要が生じてきた。
(2) 1990年代:ゴー・チョクトンの登場と政策転換
1990年に、リーに代わってゴー・チョクトンが第2代首相に就任する。リーとは 対照的にオープンスタイルの対話重視を明確に打ち出し、就任当初はリー・クワンユーの 息子へのつなぎ役と思われていたにもかかわらず、国民の支持を受け14年間政権を担う こととなった。

ゴー・チョクトンは独立記念日のスピーチ(1999年8月)次のように述べている。「「楽しさを真剣に 奨励するなんて」と私たちを笑う人もいるが…もしシンガポールが退屈で面白みのない場所だったら、 誰もここに来たいとは思わない」。才能ある人・人的資源をひきつけることへの問題意識から、 その方策として白羽の矢を立てたのが文化芸術だった。

首相就任の1年前にゴーがイニシアチブを発揮して作成した『文化と芸術に関する諮問委員会 レポート』では、文化芸術のための国内のインフラ整備を提言している。
○『文化と芸術に関する諮問委員会レポート』内容
  1. ナショナルアーツカウンシルの設立 (→ 1991に実現)
    助成金等を通じたアーティスト支援・育成
    教育プログラムやアウトリーチ・プログラムを通じた観客育成
    シンガポール・アーツフェスティバルをはじめとする芸術関連イベントの実施
    企業など民間セクターのメセナ活動を支援 (カウンシルを通した免税措置導入)
  2. 芸術教育の充実
  3. 劇場等の文化関連施設の整備
    劇場・けいこ場・作業場の拡充
レポートの背景には、1980年代半ば以降シンガポールでフルタイムで作品制作を行うプロ フェッショナル劇団が続々誕生してきた状況があり、ちょうどニーズができたところに政策が 対応する形となった。
○ シンガポールにおけるプロ劇団の結成
  1. ACT3(児童劇団)
  2. シアターワークス
  3. ST*ARS(現在はシンガポール・レパートリーシアターと改名)
    実践劇団(英語名 Practice Theatre Ensemble)
    ネセサリー・ステージ
  4. アクション・シアター
    アジア・イン・シアター・リサーチサーカス
上記のうち実践劇団以外は基本的には英語の劇団で、英語を媒介にして創造活動をおこなう時代になっていった。
(3) 2000年代:『ルネッサンス・シティ・レポート』(2000)
1980年代の諮問委員会レポートがハードインフラ整備を主眼にしていたのに対し、 こちらはソフトウェア面でのインフラ整備を目指す内容になっている。
○ 『ルネッサンス・シティ・レポート』の新たな提言内容
  1. メジャーカンパニーの育成
    シンガポールを代表するようなメジャーカンパニーの育成(5年間の時限施策)
    各年最大8つのカンパニーに年間活動資金も含めた特別助成金を交付
    80年代半ばに設立されたカンパニーが育ってきて選出される
    ダンス:1団体(シンガポール・ダンスシアター)
    演劇:5団体(アクション・シアター、シンガポール・レパートリーシアター、
    ネセサリー・ステージ、シアターワークス、実践劇団)
  2. 国際化の推進
    アーティストが主導する国際共同制作にお金を付ける
  3. 「アーツ・ハブ」の形成
    シンガポールをみんなが出合いつながっていく場にしたい
  4. ルネッサンス・シティとは
    (1) 自らのルーツに自覚的でありつつ、創造性を十分に発揮する国民によって、
    (2) 健全な市民社会が建設され、
    (3) 国際社会において確固たる地位を占めるというシンガポールの姿
  5. イメージ形成に芸術は有効、国の戦略として芸術を通してイメージ作りを行う
  6. 芸術における国際共同制作という手法は、シンガポールのブランド作りにつながり、ビジネスにも好影響を与える
<作品紹介:「リア」(1997)>
国際交流基金アジアセンター制作
オン・ケンセン(シアターワークス)演出、岸田理生作
6ヶ国共同制作(日本、中国、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール)
ヨーロッパも含めたワールドツアーも実施され、国際的に受け入れられたシンガポール作品のパイオニア的な存在。この作品によって演劇がルネッサンス・シティをつくるのに有効なツールと認識され、「ルネッサンス・シティ」の構想を体現するプロジェクトと見なされた。
<アーティスト紹介:オン・ケンセン(Ong Keng Sen)>
アジア諸国の伝統芸能をそのままのかたちで使いながら、それを生かして新たな芸術の方向を作る方法論をとる。それをシンガポール人が主導するルネッサンス・シティをうまく体現したものとレポートではとらえられた。
4.シンガポール演劇の現状
今日では、2つのレポートの内容はほぼ実現している。
(1) ハードウェア
大型劇場:2002年オープンのエスプラネードEsplanade Theatres on the Bay
2400席の劇場と音楽ホール、小ホール
劇場のモットーは「theatre for everyone」誰にでも受け入れられる劇場
各民族のカレンダー(例:正月等)に沿い各民族に合わせたプログラム
高齢者や幼児を対象としたプログラム
バラエティに富んだプログラミングを通じて国の中での芸術の地位を高める
特徴ある外観(あだ名はドリアン)もシンガポールの新しいアイコンとして活用
作る場所の整備:アーツ・ハウジング
アーティストに長期的・安定的な活動拠点を提供するアーツカウンシルの制度
植民地時代の建築をリノベーションし、賃料も9割負担してアーティストに貸す
景観保護の意味合いもあり、アーツカウンシルだけでなく省庁横断的に実施
例:サブステーション(1990)
かつてクオ・パオクンがイニシアチブをとり変電所を改良して作ったコンテンポラリーアートスペース、今では若手の登竜門的な場所になっている。
例:シアターワークス72/13(セブンティツー・サーティン)(2005)
現在のシアターワークスはメディアミックス・多分野ミックスに活動をシフト
劇場というよりもメディアミックスの作品を行っていく場
ブラックボックスではなくホワイトボックス
オフィス兼ギャラリースペース兼稽古スペース
そのほか廃校を改装して教室を稽古場に貸し出すなど、劇団に拠点を提供する活動を国が行っている。その結果、市の中心部に多種多様なスペースがオープンし、徒歩30分圏内に15の施設があるなど充実してきている。
(2) ソフトウェア
(1) 国際共同制作
日常的に行われている。日本とのつながりの強い劇団もある。
日本の占領期は共同制作の主要なテーマで、愛憎半ば、解釈も多様。
<作品紹介:「Reservoir」(2008)>
シアターワークス制作、日本からダムタイプのダンサーである砂山さん、ソイ・プロジェクト(バンコク)で活動する遠藤さんが舞台装置で参加。日本軍が第二次大戦中にマクリッチー貯水池(reservoir)のほとりに建設した昭南神社をモチーフに戦争や記憶の問題を扱う。映像を多用してダンスも取り入れた作品。
(2) 小規模フェスティバルの増加
国の威信をかけたシンガポール・ナショナル・フェスティバルでは拾い上げられない言説を拾い上げるオルタナティブな場として機能している。
<フェスティバル紹介:シンガポール・シアター・フェスティバル>
シンガポール人の劇作家養成が目的
<フェスティバル紹介:シンガポール・フリンジ・フェスティバル>
メインストーリムではない作品を各国から招いて上演する
最近は注目がかなり集まっている。当初メディアで取り上げられなくても、幕があいたらsoldoutが続くなど、今までにないストーリーを提供する場として重要性を発揮している。
(3) 自民族言語での演劇
マーケットが小さくなってしまうため基本は英語の公演が多い。しかし最近、特にマレー語演劇については劇団ができてきて、新しい面白いことが起こっている。
<劇団紹介:シアター・エカマトラ>
マレー語劇団の老舗、マレーシアの劇団と交流
<劇団紹介:パングン・アーツ>
中国語演劇の劇団ドラマ・ボックスと共同制作
5.シンガポール演劇の課題
独立以後、シンガポール演劇は、国民の声を映すメディアとして重要な役割を果たしてきた。2002年のアーツカウンシルの調査では、演劇が一番好きな芸術分野だという結果も出ている。国民が親しみを持ち、一番観に行くのが、シンガポールでは演劇である。1990年代以降は政府のテコ入れで環境整備も進んできた。今後の課題は以下の2点になってくる。
(1) 成金依存体質による政府のコントロール
アーツカウンシルは、政府補助金に加えて企業寄付金もとりまとめ、非常に大きな資金を扱うようになった。結果として、カウンシルが助成を拒否したら公演ができないような状況になっている。検閲をしなくても、助成金を差し止めれば上演禁止にできる。ある意味ではよりコントロールしやすい状況になっている。こうした状況に対抗するため、小規模フェスティバルでは企業の冠スポンサーをとりつけるなど、カウンシルだけに頼らず、直接の冠スポンサーによってある程度の自由を確保しようとする動きがある。またエンジェルという個人出資者を募る動きも広がっている。
(2) 検閲制度になる言語統制の継続
検閲制度、ここまではいっちゃダメ、というOBマーカーはいまだに残る。ただ1986年の「エスペランザ」ではだめだった内容が2006年には国の助成を受けるなど、OBマーカーの許容範囲は広がっている。ただし、検閲の基準は明文化されておらず、いくらでも恣意的な運用が可能である。アーティストは政府との有形無形のネゴシエーションを続けながら、表現活動を続けている。

ポリティカル・シアターからソーシャル・シアターへの転換とシンガポールでは言われている。政府と直接対決する演劇から、問題の告発はするけど対決はしない演劇への転換が起きた。政府との交渉の中で何とかOBマーカーを広げていくせめぎ合いになっている。
6.結びにかえて:アーティスト議員の誕生
2009年8月、アーティストを代表する国会議員が選出された。シンガポールの国会議員の選出は、選挙に加えて指名国会議員(Nominated Member of Parliament)という、ある利害関係の代表者を議員として国会の承認で議会に送れる仕組みがある。それを使って、アーティストたちがそもそも送り出すことがいいかどうかから何回も議論を重ね、最終的にMS.オードリー・ウォン(サブステーションの芸術監督)を国会に議席を占めるアーティスト代表として送り出した。これは、政府との交渉をよりオフィシャルなステージに移す契機となる。

シンガポールでは政府は芸術文化を支援しているが、それは国の目的、イメージ戦略のためである。ただアーティストもそれに対決するのではなく、是々非々でやっていこう、という関係になっている。シンガポールの歴史上、表面上とはいえこれだけアーティストと政府が仲のいい時期はこれまでなかった。しかし水面下ではアーティストは、政府に取り込まれるかもしれない危機感を持ちつつ、いろんな方策を使って政府とのネゴシエーションの手段を広げていこうとしている。それがシンガポール演劇の現状である。
質疑応答
Q1: シンガポールでは去年の秋以降どのような影響があったか?

影響はあったが巨大ではなかった。ナショナルアーツカウンシルへの影響はそれほどなく、企業でも冠スポンサーの撤退はない。ついでに言えばマレーシアは影響が深刻。スポンサーとして名乗りを上げた企業の半分が撤退したりといったことも起きている。シンガポールにおいては、アートに出資するメリット、アートの価値が社会の中である程度認められているということも関係しているかもしれない。

Q2: シンガポールにおける映画と演劇の関わりはどのようになっているか。

シンガポール映画は産業としては非常に小さい。シンガポールだけで公開しても費用対効果という意味でマーケットにならず、海外との連携が盛ん。中国と合弁会社を設置して共同で映画を作る動きが活発。一方では小規模インディペンデントの映画作りをする人もいて、サブステーションではそうした作品を積極的に紹介している。しかしなかなか産業には直結せず、TVに行く人も多い。ちなみにマレーシアでは、国として映画を産業として育てるつもりがあまりなく、TVの延長のようなものか、あるいは90年代半ばに出てきた、自分でデジタルカメラで撮って編集する作家たちしかいない。後者は当初は映画館で上映できず劇場で公開していたが、最近では彼らの作品が海外でも賞をとるようになり、マレーシアのインディペンデント映画も活発になってきている。

Q3: シンガポールの観客事情について、演劇に親しみを持っているというアンケート結果が出たというが、88年のレポート以降、人々の意識は変わってきたのか。それとももともと素地があったところに政策の整備が加わって、人々の意識は高まったのか。

原点は個々の民族にあった。中国の路上演劇や、マレーの歌舞伎に近い演劇。社会の中で演劇がインパクトをもってきたことは確かだが、それが今の観客につながっているかというと疑問も残る。今の主な観客は1980年代以降の教育を、それも海外で受けてきた中産階級。そして、人口の2割を占める外国籍、特に欧米出身者は、劇場に足を運ぶ習慣がある。シンガポール産の演劇でも客席に白人の外国人が多かったりする。

Q4: 検閲について。表現内容によって投獄されたりするのか。その場合、アーティストとその周辺はどのような対応をするのか。

検閲を見直すパブリックヒアリング、タウンミーティング的な機会はある。ただしそれが検閲制度にどのようにフィードバックされるかは不明確。検閲を行う主体だが、以前はアーツカウンシルの中に戯曲の検閲部署があった。今は省内のメディア管轄の部署に管轄が移っている。検閲システムもダイナミックに動いている。80年代以降演劇表現を理由とした投獄は、おそらくシンガポールでは起こっていない。国のイメージに与える悪影響を心配し、おそらく今後もそういうことはないと思うが、ネセサリー・ステージが90年代に入ってから、大手プレスに「共産主義的」とたたかれたことはある。シンガポールの新聞は政府に近く、そういう状況は起こりうる。マレーシアでは映画作家の方が5、6年前に投獄される事態が起こった。アーティストコミュニティが新聞にコミュニケを出したり、ファンドレイズのためのコンサートや即売会活動をしたりした。

Q5: リー・クワイユーはいわば「シンガポール人のためのシンガポール」という国づくりをしたのだと思うが、英語をベースにして進めると、ハリウッド映画のような西洋的な価値観も入りやすい。そのなかでアジア的な価値観を作っていくという動きもあったと思う。政府の人たちはどのようにアジア的な価値を考えているか。またシンガポール人としての価値観を政府はどのように考えているか。

リー・クワイユーはかつて声高にアジアンバリューと言っていたし、隣国のマハティールも共鳴した。ただ現在は、基本的にはネガティブな立場で議論されることが多い。つまりアジアンバリューという論争そのものに、多文化を受け入れるというよりは自分を特殊なものと位置づけ他を排除する発想があった。今の政府文書にそういう思想を見出すのは難しい。最近の問題はイスラムに対して、特にブッシュの時代に作られたイスラムの言説に対して、シンガポールとしてどのように対応していくかが問われている。

Q6: 自民族言語での演劇を多文化共生の中で行っていくにあたり、どのような思想が背景にあるか。

西洋文化はシンガポール人の中に根差している。欧米の英語の本がそのまま輸入されて入ってくる状況で、欧米のインパクトはとても大きい。その中でシンガポール的なものをどう作るかといったときに、言葉に敏感になるアーティストが多い。マルチカルチュラルな環境の中で、対西洋で考えたときに、自分のルーツを確認したいという気持ちが、自国語でやる人たちにはあると思う。西洋の支配的な言説に対抗するためにもそうした動きが出てこざるを得ないが、演劇を作ると言った時の手法は西洋演劇的なものにならざるをえない。マレーの人たちがやる芝居も、伝統影絵芝居よりは西洋芝居の様式に近い。それは抜きがたいものとしてある。一例として、西洋的なステージではなく、べたの地面の上で上演する劇場を造った例もある。西洋の文脈にどうしようもなく取り込まれているけれど、その中で自分たちのルーツを生かしていこうという発想はある。西洋を全否定する感覚ではないけれど、そのなかでどうやって自分たちのアイデンティティを探していくかというのが現在の状況。

Q7: 政治と演劇の結びつきという話があったが、現在では内容的に娯楽性の強いものが多いのか?

シンガポール・レパートリーシアターは商業演劇に近い芝居をやっている。政治的な演劇の一方で、毎年12月に家族で楽しめるミュージカルを作ってお金を稼いだりしているところもあり、商業演劇的なマーケットは成立しているといっていい。大型の娯楽作品制作もかなり継続的に行われている。

Q8: シンガポール演劇と社会との関わりはどのようなものか?

劇場にもよるが、シアターワークスは実験的なものをやるので、そういう意味では、社会とのつながりよりも(芸術監督である)オン・ケンセンの芸術的作品を意識している。ただしラオスでは地域とかかわる活動もやっているので一概には言えない。地域に根差してインタビューから社会に根差した問題を演劇にしていく劇団もある。アーツカウンシルが絡んでいることもあり、教育との関係は非常に活発で、アウトリーチも各劇団が専用のユニットを組んで行われている。

Q9: そもそもチケット代はいくらで、それはシンガポールの一般的な家庭でどのくらいの負担に当たるのか。助成金依存といったときに、それでアーティストが生活できるくらい依存しているのか、それとも日本のように副業が必要なのか。劇団数はそこまで多くはないように見えるが、それに対し国が出しているお金の規模は、シンガポールの経済状況の中ではどのくらいにあたるのか。

チケット代はピンキリだが、シンガポールの劇団がシンガポールの箱でやる場合、30ドルから40ドル、2800円から3000円ちょっとくらい。一般に働いている人にとってはそんなに大きな負担ではない。助成金への依存も劇団次第だが、シンガポールの場合、劇団に芸術監督と座付き作家と事務スタッフは居ても、俳優は抱えていないことが多い。その意味での劇団メンバーはフルタイムでそれだけで食べているし、助成金がなくなっても何とかやっていけるだろう。俳優はフリーランスで、いろんな劇団を持ち回り、TVにも出演する。仲の良しあしはあるが、俳優は劇団員ではない。

国の負担はさほど大きくはない。エスプラネードも組織としては会社組織になっていて、公営賭博からお金を出して施設を作り、運営は独自会社が国からのお金と寄付金をもとに運営している。国の負担が必要以上に大きくならない工夫はある。

シンガポール政府と演劇の結びつきは小さくなく、独立記念日の演出をアーティストが担うなど、金額的なものはともかく政府にとってインパクトは小さくない。