『世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップ』
C:演劇ワークショップをワークショップで考える
「ワークショップの最初の一歩を考えてみる」
2011年1月11日(火) 19時〜21時30分
柏木 陽
(世田谷パブリックシアターファシリテーター/演劇百貨店店長)
《所 感》
本レクチャーは、ワークショップ(以下WS)のファシリテーターに興味を抱きこれからWSをやろうと考えている人を対象に、そこで必要となる知識や心構え等といったことから、WSの本質に迫ることまでグループディスカッションを通して考察が行われた。特徴的であったのは、「WS」という多義的な言葉に対し、講師側が定義を提示するのではなく、参加者1人1人の「WS観」を大切にしながらディスカッションが進められていったという点である。私には、このように進められていく本レクチャー自体がWSであるように感じられ、また、ファシリテーターとしての「第1歩」を柏木氏の振る舞いから学びとることができたのではないかと思う。話の進め方、参加者の意見のまとめ方、柏木氏自身の経験談や理念等、WSを始める上で参考にできるものが、間接的にも示されていた有意義なレクチャーであった。
記録:園部友里恵(東京大学大学院教育学研究科修士課程在学)
1. 本レクチャーについて
近年、様々な人々がWSを行うようになってきている。それに伴って、初めてWSをやるため人のための講座やコースが開設されているようである。柏木自身はこのような講座等を通じてWSについて習ったことはない。というのは、約20年前に「WS」という言葉に出会い、そのようなことをやっているのをうらやましく感じ、知人に連れていってもらったのをきっかけにWSに関わるようになったためである。その当時日本にWSを学ぶ環境は実際の現場に関わることだけだった。
本レクチャーの目的は、WSをやろうと思ったときにどうすればできるのか、その「最初の1歩」をグループディスカッションにより考えていくことである。
2. グループディスカッションの内容
グループディスカッション①(3、4名 7グループ 約15分間)
テーマ:WSを初めてやる人が、何を持っていれば(知っていれば)WSを進行できると思うか?
<参加者より出された回答>
- 答えはないと思う。「答えがない」ということは、多角的にものを見るということであり、また、それを素材に人と人とが交われるようなものを提供できるということである。WS自体が答えのないものを扱っているから。
- ファシリテーターが元々持っている音楽やダンス、陶芸等の技術。
- ファシリテーターが専門的な技術を持っていなくてもおもしろいかもしれない。
- 人に対して興味関心がある人。
- 人の様子や場の様子に気づける人。
- 時間、ペース配分等の感覚を持っている人。
- 主催者側の目的をよく知ること。
- 参加者の人数を把握し、参加者がどんな人で、どんな背景を持っているかを知る。
- プログラム作りのフォーマットをいくつか示されるとやりやすい。
- 予算。
- 勇気。
- 一緒にやる仲間との話し合いの時間。
- WSは評価や順位をつけないということを知っていること。
- 人前で話せる人。
以上の回答を見ると、「WS」という言葉が何を指すのかを設定しないままディスカッションを進めてしまったために、回答の方向性が拡散してしまったように感じられた。したがって、次のグループディスカッションでは、「WSとは何か」を考えることになった。
グループディスカッション②(3,4人 7グループ 約20分間)
テーマ:自分にとってWSとは何か?
<参加者より出された回答>
- 正解や間違いのジャッジがない。
- 順位をつけない。
- 1人ではできない。
- 何かを体験すること。
- 体験を通して、参加者が何かに気づき、発見し、何かと出会うということを主催者側が望んでいる。
- 双方向的なもの。
- 講師と参加者、参加者同士の交流がある。
- 学びがある。
- 遊び。
- 主催側が、もてなし、快適な場を準備している。
- WSの中の活動において、参加する/しないという選択が自由。
- その場でルールを作ることもできる。
- 技術を上達することを目指すのではない。(○○教室と○○WSの違い)
- 経過を振り返ることが大切である。
「WS」を定義することの難しさは柏木自身も感じている。例えば、「経過を振り返る」ことは「WS」とは呼ばれない野球の試合後にも行われている。そのように考えていくと、WSであるものとそうでないものの境界はどこにあるのかがわからなくなる。また、「参加する/しないという選択が自由」ということに関して、WSでは確かにそのようなことがあるが、参加しない人の意思を尊重しすぎると、WS自体の進行が止まってしまうという問題も起こる。
近年では、「WS」という言葉自体が包括している領域が広くなっているために、何をもって「WS」と呼ぶかが曖昧になっている。このグループディスカッションでは、「WSとは何か?」という問いに対して、一般的な解答を求めることではなく、「自分にとって」のWSのイメージを共有することを目的とした。つまり、人々が持つ多様な「WS観」を集めていくことで、曖昧な言葉である「WS」の大枠を捉えることが試みられたのである。
次に、共有したWSのイメージをさらに具体化するため、やってみたいWSについて語り合う時間が設けられた。
グループディスカッション③(3,4人 7グループ 約20分間)
テーマ:こんなWSをやってみたい。
<参加者より出された回答>
- 脳内バンド。
科学の進歩が必要だが、脳に電極を付け、人と人をつなげ、心の中で歌った歌が他者に聞こえる仕組みをつくる、それを使ってバンドをやってみたい。
- 火起こし、焼き芋。
火を起こし、その火を用いて焼き芋をする。その非日常を終え、家に帰り日常に戻ったときに、「あっ」と、今まで見慣れてしまった毎日が少し違った景色で見えてくるような体験をしてみたい。
- 無重力空間で太鼓を叩く。
- 宇宙飛行士体験WS。
宇宙空間に行った感覚が体験できる。
- 死ぬ体験。
今あるWSに対して、何をやっても既に体験したことがあるように思われる。誰も体験していない「死」という絶対的な体験をしてみたい。
- 高齢者と子どもが一緒にできるWS。
高齢者が行っているリハビリのような運動に演劇的手法を導入し、子どもと一緒にそれができたら素敵だ。
- 子どもたちがとてもつらいものを体験できるWS、失敗できるWS。
子どもたちにフィクションでとてもつらい思いを体験させ、考えさせる。今の子どもたちは、失敗できないような場面を大人たちに作られている。大人の世界で現実に多く起こっている失敗を乗り越える体験を子どもたちにさせたい。例えば、仲よくすることが前提になっているWS に対し、仲よくしないWS をやってみたい。
このように、実現可能なものから、「夢」のようなものまで、様々なWSのアイデアが出された。特に議論が行われたのは、「子どもたちがとてもつらいものを体験できるWS、失敗できるWS」である。このアイデアの提案者の根底には、「参加者は皆笑顔で、ファシリテーターは良い雰囲気を作り出す」というWSの前提に対する疑問があった。このアイデアに対し、柏木は次のように述べた。
柏木:実現しようと思うと、(中略)虐待に近いこと、虐待をすることになってしまうと思う。しかし、例えば、「限界を超えるほどつらいが、やりたいことがあったらやってみよう」と思えることならしかけられるような気がする。
そこで柏木が挙げたのは、ある高校の授業の例である。その高校には、例えば非常にハイレベルな数学の授業や1日中和歌をよみ続ける授業等、教師が特殊な授業をやっても良いという期間があり、生徒は自由にその授業を受講できる仕組みがある。そこで、ある教師は「穴を掘る」という授業を行った。それは、授業時間中、校庭でひたすら穴を掘りつづけるという授業であり、16名の生徒が受講したという。穴を掘り続けていると、埋立地にある学校のため、ゴミが出てきたり、関東ローム層の粘土が出てきたりする。そのような発見がある中でひたすら穴を掘るという体験を終えた生徒は非常に満足気で楽しかったようである。このエピソードを通じて柏木が伝えたかったことは、「とてもつらいもの」の題材設定に関してである。一見実現不可能に見えるアイデアであっても、ファシリテーター側が題材設定を工夫することによって、意図したことが学べる環境を作り出すことができるのである。