講座の内容記録 2010

創造の現場
『世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップ』
A:世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップについて
「これまでの経緯ならびに理念」
 
2010年10月27日(水) 19時〜21時
中村 麻美
(世田谷パブリックシアター学芸)

《所 感》

世田谷パブリックシアターでは、開館以来多様な場所で多様な人々を対象とした演劇ワークショップが積極的、継続的に行われているが、それは国内外の様々な活動に影響を受けながら発展してきた。世田谷パブリックシアターの初代芸術監督・佐藤信は劇場を「広場」と捉えているが、誰もが参加可能な世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップは、まさに「広場」のように多くの人々の出会いの場となっている。

「ワークショップ」という言葉が多義化する今日、「ワークショップ」とは何かを再考することは重要な意味を持つ。地域の劇場として存在する世田谷パブリックシアターにとって、演劇ワークショップは劇場と地域の人々をつなぐ大切な手法の1つであると言える。本レクチャーでは、過去を振り返ることで「ワークショップ」の意義を確認し、今後の方向性を明確化することが試みられた。
記録:園部友里恵(東京大学大学院教育学研究科修士課程在学)
1. 世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップの運営とその理念
世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップは「学芸」という部門で運営されている。「学芸」では、レクチャーの企画、劇場で発行する冊子の作成、ワークショップ、教育普及等を9名がそれぞれを担当している。ワークショップについては、現在3名で企画・運営している。世田谷パブリックシアターにおける演劇ワークショップの理念については、明文化はされていない。というのは、世田谷パブリックシアターは開館以来「走り続けてきた」劇場であったためである。走っていく、開拓していくことに精一杯であった世田谷パブリックシアターにとって、本レクチャーは、今までの活動を改めて振り返り、確認する機会となっている。
2. ワークショップとは何か
近年、「ワークショップ」という言葉は様々な場所で聞かれるようになった。「ワークショップ」の辞書的意味は「作業場、工房」であるが、現在「ワークショップ」という言葉からこのような意味を思い浮かべる人は少ない。「ワークショップ」という言葉の持つイメージは多様であり、それぞれが違うイメージをもとに企画して行っていると考えられる。ここで、「ワークショップ」のイメージを以下に挙げる。
  1. 体験教室
    子どもから大人まで、演劇・ダンス・美術等のアートのテクニックを持たない人々に対して、入門的に、簡単にシンプルに伝える場。
  2. ネタだし、作品づくりへのプロセスの場
    アーティストが作品をつくるために、様々な人に参加してもらい、ネタを出し合い、作品に昇華していく場。
では、世田谷パブリックシアターにおいて「ワークショップ」はどのように捉えられているのか。「ワークショップ」の意味が多様化する今日、「ワークショップ」の意味を改めて振り返られなければならないと感じている。これが、本レクチャーの意図でもある。
3. 世田谷パブリックシアターの演劇ワークショップの経緯
世田谷パブリックシアターでは、どのようなことを大切にしながら演劇ワークショップが行われてきたのか。本レクチャーでは、開館前から遡り、幾つかのキーワードをもとに考察する。
3-1. 世田谷パブリックシアター開館前、開館当初――キーワード:「まちづくりと演劇」
世田谷パブリックシアターは、複合ビル・「キャロットタワー」内の「世田谷文化生活情報センター」(以下、「文生」)という施設の一部という位置づけで97年に開館した。三軒茶屋は住宅地であり、「キャロットタワー」のような高層ビルは他に存在しない。当時、このような高層ビル、そして劇場が新たに出来るということは地域の人々にとって大変インパクトが強く、今後この地域がどうなっていくかということに主体的に関わらざるを得ない状況があったに違いない。「文生」が出来る以前にも、世田谷区には障害者の自立支援運動やプレイパークをつくろうという動きがあった。つまり、「まちづくり」、すなわち地域の人々がまちをどうしていくかという意識が元々世田谷区には存在していたのである。したがって、「まちづくり」にとって有効な手法とされている「ワークショップ」は世田谷区と相性が良いものであった。

次に「演劇」の視点から当時を振り返る。佐藤信主宰の「黒テント」は70年代から移動公演を始めたが、世田谷区の羽根木公園でも公演を行う等、この地域とのつながりがあった。また、同時に「黒テント」は「PETA」(後述)等と関わりを持つことで、アジアにおける演劇の機能についても考えていた。そのような活動を行っていた佐藤が「文生」の基本方針の作成に加わった。本来、行政中心で考えるものを、アウトサイダー的な演劇人が作成メンバーの一員になって共に考えること自体が驚くべきことであり、後々の劇場の方向性に大きな影響を与えた。そして、そのようなメンバーで作られた「文生」の基本コンセプトが「市民のための新しい生活広場」である。佐藤は「劇場は広場」であると述べているが(世田谷パブリックシアター入口のレリーフ等参照)、ここで言う「広場」とは「人々が集まって共同することで新しいものを生み出す場」であり、言い換えると、演劇の専門家にとどまらず、いわゆる一般の人、すなわち地域の人々と共に活動する場である。演劇ワークショップとは、まさにこのような場を作り出すことであると言える。
3-2. 開館以降の展開――キーワード:「RNT」「如月小春」「ボアール」「PETA」
次に、開館以降どのように展開してきたのかを①RNT、②如月小春、③ボアール、④PETAをキーワードに振り返る。
①RNT
「RNT」とは、イギリスの劇場である「ロイヤルナショナルシアター」を指すが、世田谷パブリックシアターと「RNT」は、共同でワークショップの事業を考えてきた。「RNT」にはエデュケーションという部署があるが、そことの共同によって、地域の劇場という場所が教育をどのように担っていけるのかを学び、直接的にも間接的にも影響を受けた。例えば、区内の小中学校で演劇を上演する際、単純に見せるだけでなく、体験・参加型の作品を創作することは「RNT」から学んだことである。また、「RNT」のクリッシー氏からは、地域コミュニティにおけるアートプロジェクトについて学んだ。「RNT」との関わりを通して、日本とイギリスの演劇の捉えられ方の違いを改めて実感するとともに、今後どういうことが出来るのかを考える1つのきっかけを得た。
②如月小春
如月小春は、80〜90年代、劇団「NOISE」を主宰した劇作家・演出家である。如月は、世田谷パブリックシアターにおける中高生を対象とした演劇ワークショップに深く関わったが、現在も当時の如月の活動が引き継がれている。中高生のための演劇ワークショップは「演劇百貨店」という名称で行われていたが、如月はその途中で亡くなった。その後、当時一緒に活動していたメンバーが引き継ぎ、現在はNPO法人として活動を続けている。一般に、芸術の場合は、引き継ぐことよりもアンチを示すことのほうが多いのではないか。その中で、このような引き継ぐことの出来る人材を残していったのは重要である。
③ボアール
アウグスト・ボアールは、『被抑圧者の演劇』等を著し、南米を中心に演劇活動を行った人物であり、「フォーラムシアター」という、あるコミュニティが抱える問題を演劇として上演し、その中に積極的に介入することで現実の問題解決のための提案を生み出していくという手法を用いた。また、1970年代の識字率運動を行ったパウロ・フレイレとも深く関係があり、識字率運動に演劇的手法を用いることで貢献したことでも知られる。当時、「黒テント」のメンバーもボアールから影響を受けた。
④PETA
「PETA」(Philippine Educational Theatre Association)とは1967年からフィリピンで活動する演劇集団である。現在も活動を行っており、「黒テント」も大きな影響を受けてきた。「PETA」は、貧しい村や漁村、学校に通えない子どもたち等の地域コミュニティに出かけ、そこで起きている問題を演劇にして皆で考えるという手法をとる。フィリピンは、様々な国に占領されてきたという歴史を持つが、フィリピンの民衆は、自分たちの力で独立を勝ち取ったという意識が高い。「PETA」においても、民衆の力で演劇を作り、その演劇が自分たちの国を独立させ、作っていくことにつながるという意識を持っている。世田谷パブリックシアターでは、そのような思想や手法も取り入れている。
3-2. 近年の活動――区内の小中学校における教育普及活動
以上のように、世田谷パブリックシアターでは開館当初から現在まで演劇ワークショップの活動が続けられてきた。現在は、芸術監督が佐藤信から野村萬斎へと引き継がれたが、野村はこれまでの活動の経緯を尊重しており、現在も開館当初のものが生き続けていると言える。多様な場所で多様な人々を対象に行っている演劇ワークショップであるが、近年は学校に出向く機会が増えている。世田谷パブリックシアターと世田谷区内の小中学校とが関わるようになったのは2003年以降であり、それまでも地域の人々に対しワークショップを行ってきたが、基本的には劇場の中、建物の近辺での活動が中心となっていた。2003年、劇場を飛び出し地域に出る活動をしようとなった時、最初の行き先が学校であった。というのは、地域という捉えどころのないものに対し、学校とは地域の具体的な入り口であると考えていたためである。学校での活動が順調に進んでいった要因の1つに、2000年より始まった「総合的な学習の時間」がある。新たに始まったこの取り組みに、実際何をするのかと立ち止った教師たちはそのヒントを地域に求めた。そういう経緯から、地域の劇場として存在する世田谷パブリックシアターにもそのニーズがあったのである。世田谷パブリックシアターでは「かなりごきげんなワークショップ巡回団」という名称で学校での活動を行っている。毎年4月に「パブリックシアターが学校にやってくる」というパンフレットを教師1人1人に配布し、依頼のあった教師と相談を重ねオーダーメイドでカリキュラムを組み立てていく。また「総合的な学習の時間」以外にも、学芸会の劇発表の準備・手伝いのサポート、子どもたちのコミュニケーション力の向上に力を取り入れている学校からの授業依頼、世田谷区が実施する「日本語」という授業等も行っている。現在、「ゆとり教育」が見直され、学力重視の施策が進みつつある。そのような状況下で、学校における演劇ワークショップ活動が出来なくなってくるのではないかと感じることもあるが、今後も継続していかなければならないと強く感じている。厳しい局面もある中で今まで継続出来たのは、進行役のメンバーに積み重ね、受け継ぐという意志があったためである。公共劇場、劇団、カンパニー等が知恵・知識・経験を蓄積させ、発展させていくことがしづらい昨今、社会状況に左右されながらも蓄積が出来ていることが世田谷パブリックシアターの財産であると感じている。
4. まとめ
「かなりごきげんなワークショップ巡回団」では、子どもたちに対し「世田谷パブリックシアター」とは「世田谷みんなの劇場」であると説明する。「みんながみんなのエンゲキをつくる」のが私たちの劇場であり、「広場」であり、新しいものを生み出す場である。そのために必要なのは「開かれた場をつくる」ことである。その場がまさに演劇ワークショップである。それは、誰もが参加し、表現活動を行うことが可能で、特権的な立場の人に非難されない安全な場である。安全な場を作ろうとすると「閉ざす」「守る」方向に行ってしまうことがあるが、世田谷パブリックシアターでは、「閉ざす」ことは1人1人の表現を駄目にすると考えられており、1人1人の表現を尊重して、外へ開いていくことが重視されている。つまり、演劇ワークショップは、個人的な趣味というレベルではなく、自分を含めた他者、さらには社会に向けて劇をつくり提示していくものであり、活動を通して、様々な人が集まるという豊かさや地域で暮らす実感が得られるものである。このような演劇ワークショップをこれからも発展させていきたい。