講座の内容記録 2009

地域における劇場
『劇場における公共性』
「劇場的思考の現在―視線と空間のアルケオロジー」
 
2009年9月2日(水) 19時〜21時
八角 聡仁
(批評家)

《所 感》

世田谷パブリックシアターには空があることは訪れた人なら皆知っている。だがそれが天井に描かれた空であることについて想像力をはたらかせたことのある者は少ない。世田谷パブリックシアターをふくめ、現在では日本各地に公共劇場は設けられているが、わたしたちの頭上に疑いようもなくひろがる空のように、はたしてそれらは地域に「根づく」域に達しているだろうか。本レクチャーはこうした問いのもと、劇場形態の変遷から演劇の「公共性」に迫る。古代ギリシアの円形劇場から演出家ピーター・ブルックが提唱した「何もない空間」にいたるまで、各時代における劇場と社会の関係性を考察する非常に充実した内容であった。演劇の公共性については劇場で開催されている事業や、運営体制から論じられることは多いが、劇場の形態とそこでの上演作品を関連させながら具体的に論じられる機会は少ないのではないだろうか。本レクチャーは自身にとって劇場の見方をより豊かにする貴重な体験となった。
記録:梅山いつき(早稲田大学大学院文学研究科博士後期過程在学/早稲田大学演劇博物館助手)
1.世田谷パブリックシアターの特徴
現在国内に多数存在するいわゆる箱形の近代的な劇場は近年になって続々と建設されたものであり、その歴史は浅い。世田谷パブリックシアターのオープンから十年経ち公共劇場を名乗る劇場も多数存在するが、現在の日本社会において劇場の公共性という概念はいまだつかみにくいのではないだろうか。世田谷パブリックシアターの初代劇場監督を務めた佐藤信は劇場オープンに際し、「パブリックシアター」という概念について「ナショナルシアターに対してのパブリックシアター」と位置づけた。この発言の背景には同時期に建設中であった新国立劇場の存在があったが、「ナショナルシアターに対してのパブリックシアター」という当劇場にはどのような特徴があるのだろうか?
<世田谷パブリックシアターの特徴>
  1. 劇場内の特徴:オープン形式/プロセニアム形式両方に変動可
    舞台両袖に立つ巨大な「壁」
    天井に描かれた「空」
  2. 劇場外の特徴:立地上の特徴(路上に面しており、ビルの中に入り込んでいる)
  3. システム(内容)上の特徴:ワークショップ、講座の開催
「ナショナルシアターに対するパブリックシアター」という発言で、佐藤はエリザベス朝時代の演劇状況を例にあげ、宮廷内で限られた観客を相手にした当時のプライベートシアターに対する存在としてのパブリックシアター――グローブ座に代表される、街中にあり、多様な観客層を受け入れていた屋根のない劇場――のイメージを世田谷に重ねていた。劇場の天井に描かれた「空」はここからもたらされたものである。劇場形式とは、おおまかに古代ギリシア時代の円形劇場やグローブ座のようなオープン形式と、近代以降に発達したイタリア式オペラ劇場のようなプロセニアム形式の二つに分類することができる。しかしながらエリザベス朝時代の劇空間イメージを借りながらも、世田谷パブリックシアターはプロセニアム形式にも対応可能な構造をとっている。つまり「空」が描かれた人工的なものであるように、両義性をはらんだ劇場であると言えるだろう。ではこのことが物語る現代の公共劇場のあり方、ひいては演劇状況とは何なのだろうか?
2.神を頂く劇場――エリザベス朝時代のパブリックシアター
エリザベス朝時代のパブリックシアターは比較的入場料が安く、さまざまな階層の人間が訪れる世俗的な空間であった。その一方で、劇場構造には「世界は劇場・人間は役者」という発想のもとである、宇宙全体が秩序あるものとして意識され、劇場や人間はその縮図として捉えられるルネッサンス的宇宙観が反映されていた。パブリックシアターから見える空は単に見えていたのではなく、天体と劇場とが重なり合い、劇場内で繰り広げられることは天に通じているというミクロコスモス的宇宙観を体現していたのである。このような宇宙観に根ざした劇場では世界の再現がもとめられるはずだが、シェイクスピアの場合には『ヘンリー5世』のような史劇であっても、過去の再現ではなく、同時代の社会を活写することを目指した。シェイクスピアのアクチュアリティとはルネッサンス的でありつつも、同時にそうした価値観の崩壊の過渡期であったために生じる両義性にあると言える。
3.神の不在・近代以降の劇場の歩み――ワーグナーのバイロイト祝祭劇場
劇場を宇宙のシンボルと見なす価値観が崩壊した後に登場した形式が、プロセニアム形式である。劇場の起源である、古代ギリシアの劇場は儀式参加型の劇場であった。どの位置からも同じように見えるよう設計された円形劇場では、舞台と客席は明確に区分されず、観客同士の視線が交差する空間であった。このような円形劇場は先のルネッサンス的宇宙観に根ざすエリザベス朝時代のパブリックシアターに至っては神、もしくは天をいただくものへと変化をとげ、神不在に至っては特権的な存在である王を頂き、王がすべてを見渡せ、かつ自分を観客に見せることのできる構造を標榜するようになる。この過程にて円形は徐々にくずれ、対面型・プロセニアム形式へと変化していき、イタリア式オペラ劇場のような劇場構造へと到達する。この構造に異を唱え、観客の意識を芸術作品に集中させるべく構想されたのが、ワーグナーのバイロイト祝祭劇場である。これはワーグナーが自身の作品のために考案した劇場であり、ワーグナーの意識としてはエリート主義的と言えるものの、空間自体はデモクラティックなものでもあった。観客一人一人が切り離され、イリュージョンに集中することができる点でバイロイト祝祭劇場は近代的な劇場構造と言えるが、ワーグナーが実際に創作したのはリアリズム劇ではなく、神話的世界であった。それは神不在となった時代の裏返しと見なすこともでき、不在であるからこそ、出現させるためには客席を暗闇に沈め、作品に集中させるという特権的な席をもたない劇場空間を必要としたとも考えられるだろう。
結.今日の劇場空間――世田谷パブリックシアターの「空」が物語るものとは
神なき世界において劇場とは何をする場所なのか、または社会とどう関わりを持てるのかという課題が近代以降浮上することになる。プロセニアム形式の近代劇場、リアリズム演劇はこの課題に応え、社会的役割を担うための方策として社会の再現を行い、後のテント芝居や小劇場演劇と呼ばれる演劇および劇場空間は近代劇場とは異なるオープン形式をとるものが多かったが、ともにいかなる社会的役割を担えるかを課題としていた点では共通点を持っていたと言えるだろう。そして、プロセニアム形式とオープン形式両方をうまく活かすべく双方合体型をとっているのが世田谷パブリックシアターなのである。劇場とは、エリザベス朝時代のように空間そのものが濃密な意味を持つものであった。しかしながら時代を経るごとに無意味化の途を歩み、20世紀後半になって登場したのがピーター・ブルックの「なにもない空間」という概念である。しかしブルックが指す空間とは、最初から何もない空間ではなく、彼が拠点とするブッフ・ドゥ・ノールのような「歴史の廃墟」であり、さまざまな意味を取り払われ、または消失していった劇場の道程それ自体でもある。最後に世田谷パブリックシアターの天井に描かれた「空」に話を戻すべく、サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』における「空」を考えてみたい。この「空」はエリザベス朝時代のシンボルとしての劇場の残余を感じさせ、同時にそのパロディでもある。世田谷パブリックシアターの「空」とはこのようなベケット的な「空」と考えることができるかもしれないし、そこには今日に至るまでの劇場史が含まれていると見なせるかもしれない。
質疑応答
Q1: 本日話題となった「パブリックシアター」という劇場概念から、今日の劇場は何を 学べるのだろうか?

劇場は単なる入れ物として存在しているのではなく、市民の生活と地続きのものであり、 身近な存在であると言える。その上で課題となるのは、どういう風に人々が入ってくる空 間にするのか、どのような空間であれば人々に興味を持ってもらえるのかということにな る。劇場の公共性とは、病院や学校が社会に存在するように市場原理の外でいつでもだれ でも利用できる状態を指すことだと考えるが、この状態を目指すには、社会にとって演劇 とは、または劇場とは必要なのかという不断の問いを立て続けることが重要なのではない だろうか。