『地域社会と芸術』
Vol.2「アートなまちづくり」
2009年11月25(水) 19時〜21時
仲原 正治
(横浜市役所職員)
《所 感》
本年、開港150周年を迎えた横浜。クリエイティブシティ・芸術文化創造都市として、歴史的な財産である建築物や街並みを活かす都市デザイン戦略とともに、芸術や文化のもつ「創造性」を活かした企画によって、新たな価値や魅力を生み出す都市づくりを進めている。今回は、その「アートなまちづくり」について、時には福祉に関する業務の傍らボランティアとして、また、実際に業務として約20年携わって来られた仲原さんからお話を伺った。
街の持つ歴史を活かす、新たな街を形成する、地域の問題解決に取り組む…ハードとソフトの両面からそれぞれのさまざまな課題に対して、横浜市が行うアートを用いるアプローチはまちの活性化に結びついてきた。多くの実例を挙げながらお話いただく中で繰り返し述べられていたのは、プロジェクトや建物内の活動で完結するのではなく、積極的に「街へ出る」、そして「地元の人たちと一緒になって取組む」こと。創造都市の目標は「すべての市民が創造的になること」である。そのために行政・民間企業・NPO・ボランティア・市民がそれぞれ連携し、「アートなまちづくり」を推進してきた横浜市の歩みと取組みは、経済性による発展が難しくなってきた現在、今後のさまざまな地域でのまちづくりを考える上でも重要である。
記録:橋本旦子(学習院大学大学院人文科学研究科身体表象文化学専攻博士前期課程)
はじめに
今の時代(21世紀)は、非常に大きな転換期であり、いわば「ないものがない」時代。終戦後の物資がない時代から、高度成長期・バブル経済期を経て、今の若い世代の人たちは、物については何不自由なく過ごしてきた。しかし今年の統計によると世界の中で貧困率第4位という現実に直面している。(貧困率:平均賃金の2分の1以下の所得で生活する人の割合)日本では約15%、100人に15人が平均賃金の2分の1以下の生活をしていると言われている。日本の経済、また地球環境の変化も含めて、非常に大きな転換期にある。
もはやこれ以上の繁栄が望める時代ではなく、地球環境もますます悪化していく中で、いかに「生活」を豊かに作っていくか、その時に、一番我々にとって必要になってくるものは何か。「食べられる」「餓えなくて済む」ということの次にあるものは、「何でも買えて何でも楽しめる」という物質的、刹那的なものではなく、もっと「自分たちが生きている喜びをつくる」ものであるべきではないか。そこで横浜市は「文化と芸術」、「クリエイティブシティ」という考え方に行き着いた。現在の閉塞感のある時代を変えていくためには、今まで優先的に考えてきた価値観である効率性や経済性の論理で物事を考えていくだけでは、まったく成り立たない時代になってきている。文化や芸術の持つ創造性をいかに発揮して、現在、世界が抱える地球環境の問題、コミュニティの崩壊など、さまざまな課題に対応していけるかが求められている。こうしたことを進めていくためには、変化に敏感であり、創造性豊かなアーティストやクリエーターにいろいろな事を考えて提示してもらう、ある面においてはそういう人たちの価値観を大切にしていくことができる社会を作っていきたいと考えている。
今回は「アートなまちづくり」と題し、今、街の中に夢とか希望とか心の豊かさといったものを作っていくために、横浜が何をしているのかということを、少し時代を遡りながら、お話しさせていただきたい。
都市デザインとまちづくり
◎ 1970年代からの都市整備(ハードの整備)
○1970年代以前の横浜(※)地域
横浜は、
- 1923年9月1日の関東大震災、1945年5月29日の大空襲により、2回にわたり、
中心市街地である関内地区を中心に壊滅的な被害を受けている。
→明治から大正、震災後の復興で作られた建物で現存しているのは約30ヵ所程度
代表的な建物としては、震災前では神奈川県立博物館(M37年)や赤レンガ倉庫(M44)、
昭和初期では神奈川県庁舎(S3)や横浜税関(S9)などがあげられる。
- 米軍による終戦後約10年間の接収(市街地の40%、港湾施設の90%)の影響
→他の都市は戦後復興区画整理事業を行い、街並みをそろえ骨格を作った上で都市計画を
進めたが、横浜はこの10年間のブランクのため、都市計画に手をつけることが出来な
かった。そのため中心市街地の骨格は開港時期とほぼ同じ。
→接収解除は少しずつ行われたため、以前の地主の方が自分の土地に無計画で建物を建設
この地域が昔からのオフィス街であったため、需要があり、3階〜4階建のオフィスや
店舗付き住宅が数多く建てられた。それが現在でも残っている。
→また、車の無い時代と同じ幅の道を車が通行。港湾からのコンテナが、市街地を走る
ようなことも当たり前
○ 1965年〜 六大事業(※)の推進 :骨格づくりとなる都市計画
※「都心部強化」「港北ニュータウン建設」「金沢地先埋立」
「高速鉄道(地下鉄)建設」「高速道路網建設」「横浜港ベイブリッジ建設」の六つの事業
例)横浜ベイブリッジ…東京のレインボーブリッジと全く異なる要素
- 海のほうから象徴的なものとして見える
みなとみらいのクイーン軸・キング軸等、都市軸は海、ベイブリッジに向く設計
- 全ての港湾の荷物を、市中を走らせずにバイパスで通す機能となっており、街中を走っ
ていたコンテナはベイブリッジを通るようになった。バイパス機能であり、レインボー
ブリッジのように都心と結ぶ橋ではないので渋滞は年1回の花火の日(通行規制)のみ
○都心部の都市デザイン
横浜の都心の骨格をつくる六大事業を進める中でも、都市の個性を作ることを不断に進めていた。それが1971年に日本最初の都市デザイン室の発足
- 都市軸の形成と演出 例)水際線の歩行者軸等
「汽車道」…昔の線路跡を、赤レンガ倉庫まで繋げた舗道
明治から大正にかけて引き込み線があった場所
- 歴史的建造物の保存による空間づくり 例)ランドマークタワー
横浜造船所のドッグ(明治36年頃築)を残すよう指導。横浜市は容積率の面で規制緩和を
行い、羽田の航空管制ぎりぎりの高さ296mの建築を許可。(1995年の竣工以来15年間、
日本で一の番高さ)
- ライトアップによる都市空間の演出…全国に先駆けて実施
- 公共空間のさらなる活用 例)日本大通りオープンカフェ
- スカイラインの規制による都市景観の演出 例)みなとみらい地区
建築物には、海から遠い方より高さ制限。海に向かってなだらかに低くなる景観づくり
→ニュース等に出る風景で、日本中の人が横浜だと分かる。都市計画デザイン戦略の一つ
年に1回、クリスマスイブの日には民間の協力を得て全館点灯を実施
- 公共空間の活用 例)ナビオス横浜
ホテルを作る際、汽車道の先にある赤レンガ倉庫まで見通せる空間を造るよう要請
その際、地主に対しては地区の建築物の高さ制限31mのところを45mまで規制緩和
→空間を活かし、地主も市民も得をするまちづくり
- 赤レンガ倉庫(明治44年築) 文化施設と商業施設としての活用
商業施設の利益で赤レンガ倉庫の文化施設を運営できるしくみづくり
赤レンガ倉庫を残すことの重要性…東京と横浜との大きな違いは、何でも新しいものを
作るのではなく、古いものを残しながら、都市の魅力を作っていくこと
- 新港埠頭周辺
建築物の高さ制限(31m)…BankART等があり、空が高く、広がりのある場所
この地域も含めてみなとみらいという都市計画。
☆現在は、横浜全体をアーバンリングという形で、都市機能を変えるというような計画も、
50年後に向けて提案している
クリエイティブシティに向けて
1. ソフトを作っていく実験的な試み:クリエイティブシティのきっかけとなるイベント
≪ヨコハマ・フラッシュ≫(1988年3月11日〜3月27日)
1940,50年代を生きた街をどうするかを意識して行ったイベント
○現在のBankART NYKの隣の三菱倉庫(昭和6年築、現・神奈川県警察本部)の空間、海岸通りは横浜のイメージを最後に残す水辺空間。山下埠頭の周辺以外に市街地で残っている倉庫は二つしかなく、この倉庫の空間を残すことが、街の個性を守ることに繋がると考えた。
−当時は国の所有になっていた赤レンガ倉庫の活用にも刺激を与えた
−若い人たちの力…今の創造界隈(クリエイティブシティ)の原点
○海岸通りの倉庫と海がアートの空間へ
- アートメイズ空間:崔在銀 鉄板と迷路のインスタレーション
- パブスペース:岡本敦生、竹田康弘による作品、連日ライブを開催(山崎ハコ、加川良等)
- 光のモニュメント:田原桂一(写真家)
三菱倉庫の屋上からサンマ漁で使うサーチライトを39台空に向って照射
→17日間で7万人の観客動員、光を見た人の数は数えられない
○現在に繋がる特徴
海岸通りの倉庫と海がアートの空間へ
- 海岸通りと海を意識したアートイベント(文化芸術によるまちづくりという考え方を意識)
- 組織は実行委員会形式だが、全体を支えたのはNPO的組織(まちづくり研究会)とボランティアの若者(約50人)
- 全体の総予算の20分の1は市の負担、残りは企業協賛等→代理店は使わない
- スクールも行われた(全11回)
- パブスペースが重要であることの認識
現在ではアート空間にとってパブやカフェは重要。全体のコミュニケーションが活性化
2005年の横浜トリエンナーレではZAIMにカフェを設置(graf)
☆劇場空間と全く違う、「場の活用」の面白さに目覚める
≪称名寺伽藍DO≫ (1993年)
称名寺:室町後期の浄土庭園(現存するのは3つ:白水阿弥陀堂、毛越寺、称名寺)
○地域の歴史と風土に根ざしたイベントの開催
- まち(寺)の歴史を探究する
(鎌倉時代に建立された寺。境内に有名な金沢文庫があり、その古文書により庭は再建)
- 地元の思い(ボランティアと協働で作った手作りの照明器具、若者と一緒に作成)
- どういうアートがふさわしいかの判断
−ライトアップにより現代の浄土を表現(和紙を使った照明器具)
−人形を使った浄土の表現(ホリヒロシ)
☆あいにく雨の中での開催であったが、観客のおばあさんが突然念仏を唱え、
「生きている間に浄土が見えた!」と言うのを聞き、やって良かったと実感した
2. アート&デザインの街:ヨコハマ・ポートサイド地区(1994年〜)
○市街地の再開発事業
○「アート&デザインの街」というコンセプト
○パブリックアートの新しい考え方…全国で街中に芸術作品を置くことが盛んになった時期
- ワークショップ形式による公園づくり
→アートながら地元の人たちと一緒に取り組む。
地域の人たちのコミュニケーションの場を形成
ランドマークタワー建設で余ったドックの石を再利用、公園のオブジェや車止めを制作
- あしがたプロジェクト:再開発の地権者全員の足形を石膏でとり、蜜蝋を流した作品
参加型。町の記録をそのまま記憶としてとどめる
- 機関紙「ギャラリーロード」で情報発信
- 象徴的な工事現場でのアート 「ゴールデンクレーン」
工事用のクレーンを金色に塗らせ、光を照射。一番物議を呼んだ
建物が高くなるのと同時にクレーンも高くなり、完成までクレーンが建物と一緒にある
最初は現場の人たちから反対もあったが、朝日新聞夕刊の一面に写真が掲載されて以降、
工事現場が活性化し、皆が応援してくれるようになった
- オープニング最終 「光のプロジェクト」
- アート縁日
最初は少し仕掛けてアーティストに出てもらったが、現在では誰でもが参加できる形態
「アート&デザインの街」というコンセプトに基づき、街の記憶記録に残るものを続ける
→現在も10月の最初の週に開催している。
開始から3年ほど経ってから、北川フラムさんからノウハウの問い合わせ
→フリーマーケット的にアートだけを扱うという形式も、全国に広まってきている
○アートの委員会の設置
○まちづくりの基金の創設(6億円)
公園のモニュメントなど経年劣化した際の補修費用や、アート縁日の運営経費等、市による
再開発事業の終了後、全て地権者負担にならないよう、開発をした会社と横浜市から6億円の
公益信託の基金を創設
☆ポートサイドの仕事以外は、福祉の仕事と並行し、就業時間外や土日に
ボランティアとして参画
この他、横浜博覧会(1989年)180日間のFM放送のプロデュース等も行った。
クリエイティブシティ・ヨコハマ
◎考え方、背景とその目的
≪クリエイティブシティの考え方≫
- 人間の創造力は不安や困難、環境、平和と共存等グローバルな課題に立ち向かう力となる
- 文化芸術の分野は、もっとも顕著に現れる人間の創造力である
- 文化芸術は市民生活を充実させるとともに心の豊かさをつくりだす
- 地球環境の保全などの都市の課題を解決させていくには、創造力が必要
- 都市の活性化、国際的な競争力には経済だけではなく、文化芸術は大きな力となる
- 文化芸術により都市の新しい価値観や魅力の創出を行うことで、都市のブランドが
形成される
- 現在の日本、都市の閉塞感を打破するには文化芸術の力が大きな役割を果たす
≪なぜ「クリエイティブシティ」なのか≫…最初の動機は中心市街地の活性化
- 横浜の特色:海、港、歴史的建造物、中華街
エキゾティックというイメージ→しかし現状は魅力に乏しい。みなとみらい21地区(※)
ばかりに注目
- .(旧)中心市街地(関内、山下、関外)の衰退
歴史的建物の減少、空きオフィス、空き倉庫増加(開発ができない)
・1953年ペリー来航 (最初に上陸した場所が、現在の「象の鼻」地区)
→以降、関内周辺が居留地となり発展してきた
・横浜駅の変遷
最初の横浜駅は現在の桜木町駅。明治5年の新橋(今の汐留)〜横浜間の起点
汽車の発達(東海道線)により、大正4年に現在の高島町駅付近に移転
1923年の関東大震災で被害を受け、現在の横浜駅に移転
→昭和の戦後までは桜木町周辺が横浜の繁華街
- 東京の影響が非常に強い(経済的な発展が見込みにくい)
・支店経済から出張所経済へ
支店経済(バブル経済期)〜出張所経済(バブル崩壊)〜東京本社に吸収、という企業の流れ
昭和の20年代後半〜30年代頃の建築→古い、高度情報化への対応
→オフィスの空室率増加、みなとみらいへの移転による街のポテンシャル低下
・ベッドタウン
昭和40年代、1965年から15年間で人口は100万人増加(150万人→250万人)
郊外の乱開発、横浜駅を中心に市街地が発達
→東京で買い物、観劇、すべて賄える
→伊勢佐木町など戦前の大繁華街のポテンシャル低下
- 個性あるまちづくり→都市間競争
・歴史的建物、倉庫など特徴ある施設の活用
・文化芸術の持つクリエイティビティに注目
※みなとみらい事業(1983年着工):旧市街地(関内地区)と新市街地(ヨコハマ駅周辺)を
かすがいで結ぶ都市計画。当初計画では2001年に完成予定(計画:就業人口19万人、
居住人口1万人)。現在も進行中。年間5千万人が訪れる街。(就業人口約6万2千人、
居住人口約7千人)
☆時代により価値観が変わるため、あまりに同じ時代の要素が街にありすぎると、
街が一気に劣化する可能性がある。その面で考えると開発が遅れたことは良いのではないか。
⇒みなとみらい地区、ターミナル横浜駅(8本の鉄道、1日の乗降客は2百万人)の
2つの地域に比べ、旧中心市街地のポテンシャルが低下→クリエイティブシティへ
≪クリエイティブシティの目的≫
- 横浜らしさをつくりだす(個性ある魅力)
・歴史的建造物の保存活用
・1970年代から進めている都市デザインの推進
- 中心市街地の活性化(コアとなる3箇所)
・横浜駅→横浜駅周辺大改造計画
・みなとみらい21→みなとみらい21計画
・関内、山下、関外→クリエイティブシティ
- チャンスのある街、チャレンジする街
・150年前の開港時の精神を街に
・若者が活き活きして動く街
・市民一人一人が創造性溢れる街
- 他都市にはない個性(芸術文化都市)
・クリエイティブシティの代表都市として世界的にも認知されている
現在行われているさまざまなプロジェクト
≪ナショナルアートパーク構想≫
○象の鼻パークの整備 2009年6月2日オープン
○創造都市推進協議会設立 (官民協働の創造都市推進組織)
→アーツコミッション設立(ワンストップサービス)、
ヨコハマ・クリエイティブシティ・センター オープン
山下埠頭の用途転換 横浜トリエンナーレ2005で3・4号倉庫活用
アジアデザインマネジメントセンター構想 (開発延期)
≪創造界隈形成≫
○BankART(2004年3月〜)
クリエイティブシティの象徴的活動、日本中で認知された拠点(年間10万人が活動)
・歴史的建造物の活用:1929年竣工の旧第一銀行の一部を曳き返し、再生する
バブル崩壊後の銀行等の統合による、歴史的建造物の売却と、
1990年代後半〜2000年頃のマンションブームによる建替え
→横浜の個性である歴史的建造物の保存と活用が課題
・文化芸術の実験的事業(2004年2月〜2006年3月)
都市部歴史的建築物文化芸術活用実験事業「BankART」として開始
公募による運営団体の決定(YCCCプロジェクト+STスポット横浜)
→評価と実績 (外部評価委員会による月1回のアドバイス等を経た最終評価)
- 横浜都心に文化・芸術の新しい活動拠点が形成された
- 歴史的建造物活用の成功モデル
- 東京藝術大学大学院映像研究科の誘致のきっかけとなる等
1年間に9万人の来場者、プレス掲載等多数
・実験事業から本格事業へ
評価委員会の答申に基づき、2006年度から3年間の本格事業に移行
→2007年度実績: 事業数359(主催・共催・コーディネート、レンタル他)
入場者約10万人 滞在アーティスト67組、スクール31、講座参加者570名
事業収入約7,000万円(横浜市助成金約8,000万円)
・台北市との間で芸術家交流事業をスタート(2005年〜)
・北京の作家も招聘 アーティストインレジデンス(滞在・創作)
○ZAIM
クリエーター、アーティスト等33組の活動するクリエイティブ拠点(7万人入場)
1927年日本綿花(ニチメン)の横浜支店として竣工(渡辺節 設計)
終戦後に国に売却、関東財務局・労働基準局として利用。2003年度に横浜市が購入
2005年横浜トリエンナーレのステーションとして利用
2006年7月〜ZAIMとして、25組のクリエーターのアトリエ等の活動場所に活用
その後、建物の保存のための改築を行い、文化芸術施設として活用予定
2007年度 事業数:46(主催・共催・協力等) 入場者約2万人
滞在アーティスト:33組(2年契約でスタジオ利用)
事業収入:約3千万円(横浜市助成金2,500万円)
(建物老朽化のため、2009年度に一時閉鎖、今後リニューアル予定)
☆馬車道駅を中心とした一つの大きな界隈を形成
街に出ること、地域の人たちとの取り組みを重視した活動を実践している
例1)モボ・モガを探せ(2004、2006、2008年)
横浜市中の昔の大正時代の写真を集めた展覧会(馬車道駅)
→函館・新潟・神戸・長崎との共同プロジェクトへ発展
例2)地震EXPO (2007年)
地震が起きた時にアーティストは何ができるか、をテーマに展示
○万国橋SOKO
民間のクリエーター拠点(世界的に著名な建築家、デザイナー等のオフィスの集積)
民間倉庫のコンバージョン事例 2004年まで倉庫で活用されていた建物
1年半かけてオーナーを説得。オーナーが耐震補強、トイレ等基本設備を負担
(約3億円)、10年間で回収できるスキームを組み立て、創造的企業に貸付
横浜市はコーディネーターとして企業を集めると共に、
企業が入りやすいよう助成金制度を創設
(映像系の企業:内装費等の2分の1以内、〜5,000万円、クリエーター等:床面積
3.3?当たり48,000円、〜200万円)
進出企業:?バンタン・キャリアスクール、?NDCグラフィックス、?アイ・トゥーン、
?山本理顕設計工場など
☆横浜市だけがお金を出して何かをするのではなく、民間がやっていることを見せる
現在では地域にある古いビルを改修し、アーティストやクリエーターを入れることも推進
○急な坂スタジオ
舞台芸術の横浜における拠点 (年間2万3千人利用。街との連携事業も進める)
旧結婚式場(老松会館)を舞台けいこ場へ転用
運営団体は公募により決定(STスポット、アート・ネットワーク・ジャパン)
2006年11月にオープン(2007年3月までの5ヶ月間、31団体2,500人利用)
現在の稼働率:約90%…舞台芸術の練習場は少ない
レジデンスアーティスト4名:ニブロール、チェルフィッチュ岡田利規、
中野茂樹、仲田恭子
☆アーティストには「その建物の中にとどまるな、地域に出ろ」と指導
→吉田町商店街での街頭劇…交通止めして3日間開催
街の人たちと一緒にやるということを大切にした創作活動
≪観客移動型演劇 Cargo Tokyo-Yokohama≫
F/T (フェスティバル/トーキョー)参加作品
ボルボのトラックをドイツでガラス張りにして、中に階段状の客席を設置
→東京から横浜まで移動しながら、スクリーンに流れる映像や、車外の景色など
さまざまなものを見るプログラム。
☆手続きが非常に大変で、当初は9月から始める予定だったが、
車検の問題や通行許可を取るのに時間がかかった
○本町ビル45 建築家中心の拠点(11組の建築家、デザイナー等が入居)
○創造空間9001
旧東横線桜木町駅活用→高架及び高架下の活用も含め、今後の課題(3万人入場)
○横浜国大建築都市スクール 大学の拠点→7大学連携事業に発展(2009年度〜)
○東京藝大大学院映像研究科の活動開始(2005〜)
☆この5年間で20ヶ所以上の拠点に、クリエーター、アーティスト、学生等が活動し、
賑わいが生まれている
≪横浜トリエンナーレ≫
3回の開催(2001、2005、2008年)
わが国最大級の国際現代美術展として、内外からの注目を浴びる(毎回20万人近い観客)
地域と協働のトリエンナーレ
商店街、黄金町ほか、クリエイティブ施設等との連携により、街全体が芸術都市に
ボランティア、サポーターが活躍
2008年の3回展は1,500人のサポーターに支えられ、関連企画も20を超える
経済的波及効果は50〜80億円
黄金町地区のまちづくり
○黄金町地区:京浜急行の日ノ出町駅と黄金町駅の間の約500mの地域
・「天国と地獄」の時代
麻薬とヒロポン、売買春…戦後の闇の部分を担ってきた街(暴力団支配)
違法飲食店群:1階にスナック、2階にちょんの間(布団1枚引ける程度の狭さ)2部屋
東南アジア、南米、ロシア等の女性が多い(人身売買的に連れられてきたケースも多い)
暴力団による「みかじめ料」は年間5億円以上
☆この街を変えるということを、地元の人たちを含めてみなが立ち上がったという記録
○街の形成
・占領下での米軍飛行場建設
→立ち退きを迫られた飲食店が、京浜急行の高架下に移転して営業(野毛に露天商、
高架下に店舗)
○違法飲食店の増加:1993年までは95店舗→15年程度で269店舗
・京浜急行の高架補強工事(阪神淡路大震災の教訓)
阪神・淡路大震災の影響 により、橋脚耐震補強が必要となり、
高架下の店舗が代替地に移転し、新しい風俗街の形成
○警察による介入(2005年1月)…違法飲食店の集中的な摘発
・建物自体が投資の対象となり違法飲食店が乱立
地権者の方々も街を捨てる覚悟で立ち上がったが、最初は誰も何も対応してくれなかった。
地元暴力団の力が大きく、警察もなかなか対応ができなかった
・全国11か所に歓楽街対策本部が設置される
小泉内閣時代に世界(国連やUNESCOなど)からの「日本は平気で人身売買が
行われている国」という指摘を受け、国が対策に乗り出した
○横浜市のまちづくりの方向性
地元、企業、行政、警察等が一体となって、街の浄化をすすめるとともに、
活性化のための施策を実行する
京浜急行の高架下をモデル的に活用して、街に賑わいを作る
→今後も地区内最大地権者の京急の協力を得ながら進める
違法店舗を一掃するために、横浜市は建物土地をできる限り購入・賃貸借する
(暴力団関係の部分は除く)
→借り上げた施設等の活用については、当面はアーティスト、クリエーター、
起業家の拠点にして、若い人の活動場所として提供するとともに、カフェや飲食店、
物販などを入れていく
地域と協働で早い時期に街全体のマスタープランの趣旨に基き、その具体化を進めていく
横浜トリエンナーレ開催時期に合わせて、今後のまちづくりの方向性を考えるための
イベントを実施する
⇒黄金町バザール(2008年9月11日〜11月30日)
会場:日ノ出町駅から黄金町駅間の高架下、旧違法特殊飲食店の一部、大岡川、駅等
主催:黄金町バザール実行委員会、共催:横浜市・横浜市芸術文化振興財団
後援:神奈川県、協力:京浜急行電鉄?ほか
基本的な考え方
-
「衣食住」を含む新しい商業活動の試みや、町を見直すアイディア、イベントなどを
含めた多彩な分野を取り入れたバザールのようなイベント
-
地域、行政、企業、警察、学生、ボランティアが一緒になって活動する
-
都市再生のモデルケースとして、全国に発信
-
全国から10万人以上の来場者
☆地元の人の理解・協力を得るために、アートプロジェクトという名前から、バザールへ変更
「アートの力で売買春の街というイメージを一新する」というコンセプト
→桃太郎旗を作ってくれるなど、だんだんに街の人たちもその気になってくれた
○現在でも残る課題
暴力団事務所があり、警官に守られながら行っている。
アーティストにとっては過酷なことを強いられる街
ドアの破壊(3月)、事務所に泥棒が入り、アートの回線が断線される(10月)等
アーティストの表現方法に対する街の反発、制限
○民間が主体の取り組みへ
NPO法人(特定非営利活動法人 黄金町エリアマネジメントセンター)立上げ(2009年4月)
構成員 理事13名(地元有力者+大学教授により構成) 理事長:小林光政
アートによるまちの再生・空店舗およびスペース活用・人材育成、経済活動の再発見、
エリアマネジメントの推進・安全、安心のまちづくり・地元組織の活性化
2009年度予算:約9,100万円(横浜市からは半分強)
○毎月1回(第2日曜日)オープンスタジオを開催
スタジオを開放した見学ツアーを実施
→40人から50人くらいの人が一緒になって、説明を聞きながら見学
ツアー後には話し合いの機会もある
これからのクリエイティブシティ戦略
○創造性による都心部再生
文化芸術・まちづくり・産業育成の三位一体により、横浜独特の地域資源が集まる
関内・関外地区の再生
○Creative KAIWAI (クリエイティブ界隈)
国際文化芸術都市として、ヨコハマから世界(特にアジア)に向けヨコハマ文化を発信する
○創造都市ブランド
横浜が持つ創造的な資源を活用して、人が集まる場所を積極的につくり、横浜独自の新しい都市文化を創る
○市民、地域が創造的になる
市民一人一人が創造的になり、地域が創造的になることで、
地球環境や地域の問題を解決できる街
○チャンスある街・映像都市ヨコハマ
若者がチャンスを持てる街として、映像やクリエイティブなことで起業し、
発展することのできる街
○クリエイティブシティの推進体制(官民一体となって推進)
創造都市推進協議会、企業ネットワークと協働で、ヨコハマ・クリエイティブシティ
センターを中心に、行政、企業、財団、NPO、市民がネットワークを形成して進める
さいごに
<創造都市とは>
創造都市というのは、都市に眠っている資源を発掘し、特に文化を中心とした活用によって新たな価値を創造し、創造産業を集積し、市民の主体的な参画によって、新たな都市形成を図っていくことである。資源は建造物、港湾下線、里山などの有形のもの限らない。祭りに代表される無形文化財も、さらには地域社会を動かす経済やコミュニティのシステムも重要な資源である。そして、そこに住んでいる人が主人公となり、創造的に街を作ることが基本である。
横浜に住んでいる人にとって、住みやすい街をつくること。これがあって初めて、外からの観光客も街を楽しむことができる。私たちの創造都市の目標は、すべての市民が創造的になることである。創造的になるとは、市民自らが街の姿を考え、街の課題を解決し、地域コミュニティを再生し、市民自治による街づくりを推進することである、私たちが文化を重視するのは、市民の創造性に期待するからである。
(横浜市文化芸術振興財団専務理事 加藤種男氏発言より)
横浜市:横浜開港150周年 創造都市事業本部
http://www.city.yokohama.jp/me/keiei/kaikou/souzou/