『公共劇場の運営』
Vol.4「公共劇場は、誰のものか」
2010年8月19日(木) 19時〜21時
大石 時雄
(いわき芸術文化交流館/アリオス支配人)
《所 感》
兵庫県伊丹市、東京都世田谷区、岐阜県可児市、そして福島県いわき市と幅広い地域の公共劇場に関わってこられた大石氏のお話は、その多様な経験ゆえの視野の広さと現実を見つめる冷静さに裏打ちされていた。それと同時に、その地域に暮らす人々への優しい眼差しが印象的だった。また、地方出身の記録者にとって、いわき市の実践は刺激的だった。
劇場法を巡り“作る劇場”が叫ばれている今だからこそ、演劇の芸術性(という言い方が正しいかは分からないとのことだったが)を追求する一方で、演劇を一般市民に浸透させようという考えが、今後ますます必要になるのではないか。大石氏の言う通り、これらは相互に補い合う関係なのだ。
大石氏が、なぜ、演劇や芸術が世の中に必要なのかということを明言されることはなかったが、「お金や経済的豊かさを求めると、最終的には戦争しかない。演劇を求めると、最終的には平和しかない。と、言い切っていいと思う」という言葉には、強い意志を感じた。
記録:福西千砂都(東京学芸大学大学院教育学研究科博士前期課程修了)
0.はじめに
公共劇場は、誰のものか。私は、税金を納めている地域住民のものと考える。
いわき芸術文化会館/アリオスは「図体のでかい、施設を貸し出すことを優先する集会所」だ。公共劇場だとは思っていない。まず、このことを理解していただきたい。
今、芸術監督を置き、舞台作品を作り、劇団を持つのが公共劇場だという考え方がある。まるで、貸出専用は頑張っていないかのようだ。一体誰がそんなことを決めたのかと思う。演劇業界中で当然のことのように語られていくほどに、猜疑心が湧いてくる。
1.日本の公共劇場
ベルリンの公立劇場において、入場料からの収入は運営費の5%ほどである、と言われる。観客が少ないわけではない。劇場に大きな額の税金が投入されることが当然なのである。ベルリンの市民、ひいてはドイツ国民に、街には劇場があるものだという考えが根付いており、この価値観が、劇場への税金投入を支えている。
一方、日本にはそのような価値観はない。従って、ドイツの公立劇場制度は素晴らしいが、日本での実現性は薄い。
日本の地方都市の「公共ホール」では、カラオケ大会が行われているのが現実だ。そして、ホールの職員はとても忙しい。来館者の話し相手になり、チケットのもぎり等を手伝い、トイレ掃除をする。清掃業者を頼む予算はない。芸術監督制度等を発言する演劇人達に優れた芸術を創造する力があったとしても、このような心あるホール職員達の仕事に思いが至らなければ、想像力の欠如を疑わざるを得ない。
2.集会所としてのアリオス
冒頭でも述べたとおり、アリオスは「図体のでかい集会所」だ。地方自治法に定められている「公(おおやけ)の施設」としての公立文化会館であって、公共劇場だとは思っていない。
「公の施設」として位置づけられている公立文化会館の利用目的と利用者について、地方自治法第244条では、住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供する施設が「公の施設」であり、住民が「公の施設」を利用することを拒んではならない、また不当な差別的扱いをしてはならないと定めている。つまり、公立文化会館の利用者とは、公の施設を使う地域住民である。
更に、施設のうちホールや劇場部分のみを考えると、利用料を支払ってホールを借りる貸館利用者や、催し物の入場券を購入して貸館の舞台を鑑賞する観客も利用者である。リハーサル室などで練習する人々や、そこで行われるWSの参加者、また施設内に在るレストランやカフェ、トイレやキッズルームを利用する人々も、皆同じ利用者なのである。
施設の運営組織や芸能実演者団体だけが利用者というわけではない。
もし劇場法が設置されたなら、我々が共通して持つ劇場概念が必要となるだろう。そのことは喜ばしいことだ。ただし、集会所であるアリオスはその対象にはならないし、公共劇場の枠に嵌めて欲しくはない。これはいわき市の希望でもある。責任者が私という支配人で、地方都市の集会所であるいわきアリオスは、芸術監督をおいて、独自の劇団を持つという公共劇場の概念の外にありたいと思う。芸術家がアートを提供し、住民がアートを享受するという二元論的な考えには与しない。
演劇や絵画、ダンス、音楽など芸術そのもの本来が持っている力は普遍的なものであると考える。しかし、劇場の役割は時代によって変わるべきである。演劇や劇場という言葉の概念も、時代のニーズによって変化するだろう。それを法的に定義してしまうことへの危険性も感じる。
演劇や公共劇場について、多様な立場や視点から考えることは大切である。俳優や作家、演出家から見た劇場と、観客や一般市民から見た劇場が一致するとも限らない。定義することで、本当に大切なことを見失ったり、演劇や劇場の更なる可能性を狭めたりすることになるかもしれない。
3.いわきアリオスについて
3-1 おでかけアリオス
いわきアリオスの設立理念は「気軽に立ち寄っていただける敷居の低い施設」である。いわき市の面積は国内でも有数の広さであり、中山間地域を含んでいる。同じ市内でも1時間半から2時間程車を運転しないとアリオスに来ることができない地域もある。実は、アリオスに来ることのできる市民よりも、来ることのできない市民のほうが多いのだ。アリオスはいわき市民の税金で建てられたものなので、アリオスに来られない市民もアリオスの事業の対象になるべきだ。
そこで、我々は「おでかけアリオス」という事業を行っている。プロの音楽家とともに中山間地域の学校に行き、コンサートやWSを行うのである。子どもだけでなく、公民館やお寺、福祉センターなど大人を対象にした催しもある。おでかけ先のような音響効果の期待できない場所でやる場合、料金は頂かない。ただし、プロの演奏家を呼ぶことにこだわっている。また、いわき市在住の演奏家や音楽家を巻き込むことを始めている。音大出身の音楽教室の先生は各地方にいるので、そういう人々をトレーナーからアーティストへとチェンジさせて、学校に連れていくのである。
・配布資料:「いわき芸術文化交流館アリオス広報紙 アリオスペーパー vol.13」(2010年4月23日発行)
3-2 平中央公園とトイレ事情
アリオスの設備の特徴は、公園とキッズルームである。
アリオスの前には平中央公園が広がっている。この公園は、アリオス建設当時は公園の回りを木々が覆っており、お年よりや若い女性が入りにくい雰囲気であった。それをアリオスの建設をきっかけに、「見通しの良い公園」へと変えていった。
平中央公園にはトイレがない。こちらから公園にトイレを作らないようにお願いした。一般的に、公園のお手洗いは「3K」だ。危険、汚い、壊れている。公園に来てトイレが必要になった場合は、アリオスのトイレを使ってもらう。トイレは、清掃スタッフの方々にいつもキレイにしていただいている。また、公園でランチを済ませたOLが、アリオスのトイレで歯を磨いて化粧直しをしたりする。
さらに、公園には子どもが遊んでも危なくない水場を用意した。この水場は、夏にはプール化する。毎日のように子どもたちが遊びに来る。最近はゴーグルを持参する子どももいる。毎日がこのようににぎやかなことが、アリオスの自慢とも言える。
3-3 アリオスのキッズルーム
もうひとつの特徴が、キッズルームである。キッズルームとは、ホールで主催公演が行われる場合の託児サービスに使用する施設という考え方が一般的である。しかし、アリオスのキッズルームは託児が第一の目的ではない。東京とは違い、いわきのような地方都市では託児が必要な公演が行われることはほとんどない。いわき市には地元の人同士で結婚した人が多く、両親に子どもを預けることができるため、託児サービスはあまり必要ないのだ。そのような状況で、託児だけはもったいない、いっそのこと市民全体に開放してしまおうと考えた。そこで、授乳室や親子が一緒に用をたせる広いトイレを造ったり、入口をアリオスのスタッフの目の届く位置に造って不審者に気を配ったりしている。
アリオスの自主事業で託児サービスを行うときは「すみませんが少し使わせてください」という姿勢で、いつも利用してくださっている親御さんたちにお願いをする。その間、大事なお子様を預かる責任者として、キッズルームはクローズにする。
いわき市におけるシングルマザーの中には、職場環境や生活環境によって、アリオスに頻繁に来ることができる人がいる一方で、そんな暇などない人も多い。アリオスに来る暇のない人をなんとかすくいあげたい。そのためには「もしよければ、アリオスのキッズルームに遊びに来てください」ということが肝心だ。遊びに来た日に、何かコンサートが行われていた場合、人のよさそうな楽団員さんに頼んで、10分程キッズルームの親子のために演奏してもらう。親子はキッズルームに遊びに来ただけだが、そこに生の演奏というサプライズを加えるのである。そういうことがとても大切である。
あるいは『オペラ座の怪人』の役者がコスチュームを着たままで、カフェにお茶を飲みに来てただ去っていく。それだけでも、お客さまは「あれ?」と思う。「あ、ここはホールか。あ、『オペラ座の怪人』をやっているんだ」となる。それだけでも素敵なことだと思う。
4.世田谷パブリックシアターといわきアリオス
今日のテーマは「公共劇場は、だれのものか」である。アリオスは劇場やホールよりも、公園とトイレとキッズルームに力を入れている。このことについて、考えて欲しい。コンビニでおにぎりを買って公園で食べて歯を磨く人、子どもが小さくてなかなかコンサート等に縁のない保護者が来ることのできる場所にしたかった。
地方は、福祉、医療、雇用、教育、交通など深刻な課題を多く抱えている。そういうところで「演劇は素晴らしいんですよ」と言ってもあまり意味はない。それよりも、演劇や俳優の力はこれらの問題の何に有効か、を考えて仕事をすることが大切だ。それを享受した人たちは、演劇っていいなと思うようになるだろう。
あまりこういうことを声高に主張したくはないが、僕の思う演劇の力は、人と人とをつなげることにある。芝居は、役者や演出家、技術や制作、皆がどれだけ一緒の時間を過ごし一緒の方向を見て汗を流したかということが重要になる。崩壊した地域のコミュニティを作る力が演劇にはあると思う。
東京の素晴らしい演劇をいわきにもってきて観客に提供するのも大切だ。しかし、アリオスだからこそできる演劇への肯定は何かと考えれば、まずは、演劇など観ない人に、演劇や俳優の力を知ってもらうことではないか。それを知る人々が増えていき、ベルリンのように「演劇って必要でしょ」と自然に考えるようになる。日本の国民の価値観を変えていくお手伝いをしたい。
一方で、演劇の芸術性(演劇に芸術性を使ってよいのかわからないが)を追求していく人も必要だ。そうでないと、演劇そのものがつまらなくなってしまう。
世田谷パブリックシアター(SePT)のような東京の公共劇場が海外に負けない作品を創る。いわきアリオスはそれを受容する。SePTとアリオスは補完する関係にあるのだ。どちらかが必要なのではなく、どちらも必要なのである。
5.公共劇場を眺める視点
「公共劇場は、誰のものか」ということに関しては、ここにいる皆さんそれぞれで考えていただきたい。いわき芸術文化交流館/アリオスという日本の地方都市の事例が、そのヒントになれば幸いである。
「図体のでかい集会所」は卑下して言っているのでない。事実を見据え、地方にしかできないことを見極めて、それぞれができることを行うのが大切ではないだろうか。
東京といわきでは人々の見ている風景が異なる。東京には多くの人がいて、情報が溢れている。しかし、いわきではそれが普通ではない。いわきの公立文化施設は、いわきで生活している人を見なくてはならない。その地域の人々の視点から公立文化施設を眺めてみることが大切なのである。最低でも、以下の3つの視点が必要である。
①俳優やアーティストの立場から演劇や劇場の施設を見る。
②演劇が好きなお客さんから演劇や劇場の施設を見る。
③演劇なんてまったく関係ない人の立場から、演劇や劇場の施設を見る。
公共劇場について考えるのに、演劇との関わりの長さは関係ない。経験のない人の方が、まっさらな状態で物事を考えるので、これからの公共劇場の在り方や、演劇の価値について的確なことを見つけ、時代を切り開いていくかもしれない。
最後に、繰り返しになるが、公立文化会館の自主事業である公演のチケットを買って、客席に座るお客様と、お昼時に公園で食事をして施設のトイレを使うお客様と、双方の間に区別ない。僕がアリオスにいる間は、これは絶対に譲れない。この考えが合わなくなったときには、新しいスタッフが次のスタンスを考えることになるだろう。