講座の内容記録 2010

劇場運営
『公共劇場の運営』
Vol.3「二十年後のために―社会における劇場の役割」
 
2010年8月6日(金) 19時〜21時
宮城 聰
(SPAC芸術総監督)

《所 感》

なぜ税金を投入して、地域の公共劇場をつくるのか。上演プログラム、地域に住む芸術家の意味、演劇の適正規模の3つの視点から語られた。人々が今望んでいることだけでなく、その先を見据えたうえで、人間にとって必要な作品や芸術環境を提供していくことが大切にされている。目先の需要に対する供給に走りがちな昨今において、このように20年とそれ以上の長いスパンでものごとを考える姿勢は、非常に重要であろう。

地域をめぐるシビアな現状分析とは裏腹に、宮城氏の人々への視線は常に優しかった。「自分はこの世界に生きていてもいいのだと客席で思えた経験」があるから、演劇の仕事をしているというお話が印象的だった。

20年とその先の社会のために公共劇場は何をするべきか。SPACの活動は、私たちに大きなヒントを与えてくれるのではないだろうか。
記録:福西千砂都(東京学芸大学大学院教育学研究科博士前期課程修了)
0.はじめに
2007年4月から財団法人静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術総監督をしている。芸術をする人間として、なぜ芸術でお金を貰うことができるのか、お金を貰ってよいのだろうかとよく考える。税金を使って運営される公立劇場がはたして必要なのか、意味があるのかということを常に問いただしている。

税金を使って演劇をするのはなぜか。税金を使うからには、演劇の責務があるはずだ。その責務を全うするためにSPACのような制度が必要である、と仮定して、考えたことをお話ししたい。
1.SPACについて
SPACは1997年にスタートした。初めの10年間は鈴木忠志氏が芸術総監督をしており、11年目から私が引き継いだ。

SPACの特徴のひとつは、芸術総監督という仕事である。芸術総監督は、日本の演劇に限ればおそらく私ひとりで、他は芸術監督という名称である。芸術総監督の仕事の大半は劇場の運営に関することで、それから演出の仕事をしている。芸術総監督は、人事権と予算執行権を持っている。予算の上限は県が決定するが、その使い道は全て決めることができる。一方、他の日本の芸術監督は人事権と予算執行権を持っていない。

もうひとつのSPACの特徴は、専属劇団の専用劇場であることだ。貸し劇場は行っていない。ヨーロッパで“theatre”という場合には、劇団と劇場を一体のものとしてイメージするのがほぼ当然と言える。日本でも、かつての「市村座」「中村座」などはそれに近い存在であった。「座」は、劇場と劇団を意味している。もともと、劇団という演劇をする集団がいるから演劇をやる場所(劇場)ができるというのが演劇の考え方だが、日本ではテアトロを劇団と劇場に分けてしまった。今ではSPACのような存在は珍しい。

では、なぜ97年にSPACが誕生したのか。ひとつの理由は、鈴木忠志さんの掲げた理想が魅力的だったことだろう。しかし、静岡の人たちが税金で演劇をやるべきだとすっかり納得してSPACが作られたのかと言えば、そうではなかったと思う。ある理想を描いたパイオニアがいて、その後を引き継いだ人間としては、理想を証明する責務があると考える。
2.公共劇場の意味
2-1 上演プログラム
今の社会には、民間でできることは民間でやればいいという風潮があると思う。商業と公共の仕事に分けられており、商業でできることは商業でやればいいという流れになっている。演劇もその影響を受けているし、静岡でもそういう声がある。

商業劇場とは、税金を投入しなくても運営できる、劇場で行われている公演が市場経済の商品として流通し得るということだ。その典型は歌舞伎であり、江戸時代から切符を売ったお金のみで運営されている。

一方、公共劇場は税金で運営されている劇場であり、市場経済では成り立たないプログラムを上演できる。だが、そのようなプログラムを提供する必要があるのだろうか。以前は私は、文学に大衆文学と純文学が存在しているようなものだと思っていた。大勢に受容されないからといって、純文学が不要なわけではない。歌舞伎はチケット収入で成立するが、文楽は国が抱えているようなものだ。そのような形で税金が投入されることはあり得るだろうと思っていた。

そこで、SPACの運営を考えたとき、いわゆる儲かる演劇の収入分で、儲からない演劇を成立させればよいのではないかとも考えた。実際、多くの公立劇場がこの原理で動いているように思う。大型の赤字を出さずに、儲けた分で作品をつくり、税金は必要な人件費などの経費に投入している。では、儲かる演劇を行う期間を、例えば8ヶ月から11ヶ月に延ばし、儲からない演劇の期間を4ヶ月から1ヶ月に減らせば、税金を使わなくても運営できてしまうのではないか。

大衆文学と純文学の違いはテイストや趣味の違いであって、決してクオリティーの違いではない。単に、甘いものを買う人は多いが苦いものを買う人は少ないということなのだ。演劇においてもテイストの問題だとすれば、公共劇場は大勢が好むものを8割、そうでないもの2割つくればよいことになる。

私が演劇の仕事をしているのは、自分はこの世界に生きていてもいいのだと客席で思えた経験があるからだ。では、そのように思えた演劇というのは、テイストの問題なのだろうか。そうではないと思う。甘いものに救われる人も、苦いものに救われる人もいるだろう。

それでは一体どういう問題なのか。今考えているのは、商業劇場でのプログラムは、需要に対する供給であるということだ。商業での演劇は、こういうものを観たい、こういう時間を過ごしたいという需要に対する供給である。では公共劇場での演劇は需要がないということなのか。需要がないのに供給する必要があるのだろうか。

この世で、需要がないのに供給されている典型的なものは「学校」である。私立の学校でさえ、膨大な税金を使って運営されている。読み書きそろばんは需要に対する供給と言えるが、係り結びや因数分解はどうだろう。学校で学ぶことで、子どもがあらかじめ欲しいと訴えているものはあまりない。なぜ学校は、欲しいと思われていないことを提供しているのか。それは、そのときは欲しいと思わなくても、後から必要だったと分かるものがあるからだ。

演劇でも、同じように言えるのではないか。「自分も生きていていいのかも」と思えるかどうかは、観てみるまでわからない。演劇の中には、後になって観ておいてよかったと思うものがある。それは後になって必要だと気付いたということだ。そういうものは、観る前に欲しいとは思われない。人は、本当に自分の心に必要なものを、必要だと自覚できていることは少ない。だからこそ、公立で、税金で行うことが必要なのである。
2-2 地域に住む芸術家
では、公立劇場は各地域になくてはいけないのか。それとも国が作品をつくって、各県に回していけばいいのか。

劇場の特色のひとつは、色々な人間がいることを身をもって知ることができることだ。芝居の内容だけでなく、芸術家になってしまうような人間がこの世にはいるのだと知ることができる。彼らをブラウン管の向こうにではなく、自分と同じ地平に住んでいる人と感じることができる。そして、そういう人でも生きていていいのだ、生存を許されているのだと知ることが、他の人にとっての救いになっているのではないだろうか。従って、芸術家は一定の人口に一定の人数が住んでいなければ意味がないだろう。日本の芸術家が東京にばかり住んでいることは、芸術家の意義を薄めていると思う。

多様な芸術家の中で、俳優が他の芸術家と異なる点は、「自分の言葉や自分の気持ちをひとつも言っていない」ことである。普通、芸術家は自分の表現したいことを表現しているはずである。近代社会では、人はこの世に生きている限り、自分の中にあるものを外へ表現しないといけないという先入観がある気がする。しかし、実際に思っていることを外に出せる人はあまりいない。そんな世の中で、俳優のような仕事は、無理に自分の中のものを表現しなくてもいいのだと教えてくれる。しかも、俳優には音楽家や画家のように特殊な能力は必要ない。音楽家や画家に対しては、ふつう、上手いな、でも自分には無理だなと思うだろう。しかし、俳優の中には、なぜ彼らが俳優なのか、一見して分かりにくい人がいる。自分の周りにそういった俳優がいるというのは、公立劇場のもう一つの意味であろう。すぐ近くに俳優や照明家や衣装スタッフが住んでいることが重要なのだ。

地方都市に住んでいる芸術家は少ない。地方都市の子どもにとって、芸術家は遠い存在だ。彼らが芸術家になりたいと思っても、どうしてよいか分からない。だから、とりあえず東京に行く。なぜ東京に行くのかというと、情報や芸術文化が集まっているからだ。情報や芸術文化がないと、自分の住んでいる場所に誇りが持てない。よく「美しい自然とここにしかない人情」というが、それだけで人々が満足していれば、人口が減ることはない。せめて、住んでいる人たちが誇りを持てる、ここにしかない芸術文化というものを作らなくてはいけないのである。 静岡でも、380万の県民の中でアートの才能があるかもしれない人材のほぼ全員が、東京へと流出してしまう。一方、静岡はサッカーチームが2つある。サッカーでやっていきたい子どもは、誰も東京に行かない。サッカーと同じ状況をつくれば、人材は流出しないのではと考えた。「芸術家が流出しない県」を作れば、それだけでも日本で初めてである。
2-3 演劇の適正規模
地域に劇場が必要であるひとつの理由は、演劇における適正規模の問題である。演劇しか持ちえない効果は、「生身の人間が他人に対して影響を与え得る」ということを体験してもらうことだ。今、このことを演劇人ですら信じなくなっているように思う。

最近の演劇で一番多いのは、舞台に複数人が出ていても、個々人がブログやツイッターのように独り言を喋るというものだ。このスタイルが驚くほどに世界での主流なのである。一見、ダイアローグのように見えるが、相手の生身のパワーが自分に影響を与えているわけではない。相手から出た文字情報に、反応しているだけなのだ。

相手が生身でなくとも、確かに自分の体は変化する。熱くなったり、絶望感におちいったりする。しかしそれは、相手から出てきた生身のエネルギーによって変化したわけではない。ただ自分の脳が情報として受け止めた結果、身体が変わっただけなのである。

生身の人間が他人に対して影響を与え得ることを信じられるようになれば、人間は生きやすくなるのではないか。より面倒になることもあるだろうが、孤独感については相当ほっとすると思う。演劇はそれができるメディアなのである。

そのためには、遥か彼方の舞台に俳優がいることは好ましくない。自分の経験で言えば、生身の人間のエネルギーが届くのは400〜500人位までだ。700人の小屋の一番後でみていても、情報としてしか届かない。しかし、400までしか客席が作れない状況で、東京で制作した作品を回していくのは困難だ。

静岡芸術劇場の客席は約380である。年間約100ステージを行えば、静岡の中高生の1学年全員、つまり32000〜34000人を(引率の先生と一緒に)招待することができる。そうなれば、静岡の中高生は、6年間で必ず1度は本格的な劇場で観劇体験ができるようになる。年間100ステージを目指すには静岡に劇団と劇場がないと難しい。

また、東京で作った演劇を地域に巡回させた場合、どこの公立劇場でも同じプログラムが行われることになる。すると自分の地域に誇りが持てず、人材の流出につながるだろう。
3.20年後のために
今、産業界で必要な人材は、以前のように人と同じことができるのではなく、人が考えられないことを考えられることが重要視されている。だが、日本の現行の教育システムでは、そのような人間は育ちにくい。学校は周りと同じことをできるようにしか教えない。しかし、人には皆、他人と違うことを考える素質がある。その種を育てるのが、自然と芸術ではないか。自然と芸術は、それぞれがこの世にひとつしかないものだからだ。しかし、東京以外の地域には芸術が少ない。京都や奈良には古い彫刻や絵があるが、過去の作品を増やすことはできない。現代美術や現代演劇、現代アートを各地に増やすことが必要なのだ。

芸術離れは、実は日本に限った話ではない。先進国全体の問題である。それを防ぐためには、適切な規模で、身近にあって高い頻度で人を触発できる芸術文化が必要である。すなわち、各地域で、それぞれの芸術を発信していく拠点が必要なのだ。

なぜ税金を投入して公立の劇場をつくるのか。以上のように考えたからと言って、私自身が安心しているわけではない。これはひとつの仮説である。結果が出るまでには20年程かかるだろう。さらに、この取り組みが全国規模になり、静岡が目立たなくなることが望ましい。そうなるには20年よりもっと長い時間が必要となってくるだろう。