『公共劇場の運営 ―世田谷パブリックシアターを事例に―』
Vol.5「これからの公共劇場に向けて」
2010年5月25日(火) 19時〜21時
矢作 勝義
(世田谷パブリックシアター劇場部)
《所 感》
「劇場とは何か」「劇場は何をしなければならないのか」これが今回の講義のテーマである。世田谷パブリックシアターの運営を事例とした5回に渡るシリーズを締めくくるのは、最もシンプルな問いかけへの回帰であった。しかし、ここで問題となるのは夢やモットーとして語られる類のものではなく、長年の劇場運営経験に基づく地に足のついた実感である。それは劇場の生活感といってもよいものかもしれない。観劇のため劇場に足を運ぶ者にとって、ハコとしての劇場そのものへの意識は時にうすれがちになる。しかし劇場は数々の物語が展開される一種非日常の場であると同時に、費用や手間をかけて存続させねばならないナマモノである。そのような生の「劇場」が社会の中に「ありつづける」ために、いかな労力が必要であるか。その労力を越える劇場の必要性と可能性とは何であるのか。シンプルでありつつも根本的な問題意識をかきたてられた講義であった。
記録:山口真由(東京大学大学院学際情報学府文化・人間情報学コース博士課程)
1. 劇場とは何か?
「劇場とは何か」。劇場に関わる人間は、常にこの問題意識に立ち返らなければならない。劇場は作品を上演するための単なる「場所」でもなければ、当たり前の存在としてそこにあるものでもない。他の建物を建てたり、更地にして広場として使ってもよいところをわざわざ劇場にしているのである。また、能楽堂のような伝統的なものならともかく、一般的な劇場にとってはその存続に保証や期待があるわけでもない。ある程度の期間にわたって劇場が存続するためにはなおのこと、外部に対して説得力を持たなければならない。さらに劇場、特に公共劇場をめぐる状況は行政改革の波をも受けて刻々と変化しており、存在意義の獲得とその発信は重要度を増している。
2. 世田谷パブリックシアターの運営事例
(1) 公共劇場をめぐる状況
公共劇場が直面している課題としてまず挙げられるのは財政状況の変化である。2010年度の予算編成に際して注目を集めた事業仕分けは劇場にも影響を及ぼした。宝くじの発行停止により、財団法人地域創造からの助成金が見込めなくなったのである。この助成金はいわゆる「ハコモノ行政」にとどまらず、上演されるコンテンツを充実させることに貢献していた。その削減により、ようやく形をなし始めた枠組みが再び改変を迫られる打撃は大きい。一方、従来の使用料制度にかわる利用料金制度の導入も財政を逼迫させた。これによって管理者は施設の利用料金を自らの収入とすることができるようになったが、逆に言えば管理経費をまかなう財源はそれに限られる。劇場運営のコストは一般の予想を越えて大きく、世田谷でいえば利用料収入と助成金を五分五分の割合としてまかなっている。その全てが利用料として利用者にふりかかると、作品を作ることなどとてもできなくなる。多くの劇場では人員削減によって収入の削減に対応を試みているが、それでは人材を有効的に配置することができず、劇場そのものの運営に関われる人材が育たない。継続的な雇用形態や年金制度の整備など、人材育成に関しては他にも課題が山積している。
(2) 劇場からの発信―内的な対象に向けて
こうした状況下で公共劇場が存続をはかるためには、内外に対する存在意義のアピールが不可欠である。内部として劇場に関わる対象を考えると、まず行政があげられる。区長や市長、県知事などその公共劇場が属する地方自治体の首長に理解があるかどうかは、劇場の活動範囲を決める重要な要因である。その好例が静岡県舞台芸術センターであり、県にゆかりのある演出家・鈴木忠志を芸術監督に迎え、芸術家主導の公共劇場を実現させている。また、劇場を管轄する行政部門や同じ建物を共有する他の団体の理解をとりつけ、サポートを得られる環境をつくることも重要である。
(3) 劇場からの発信―外的な対象に向けて
一方、劇場にとっての外的な対象としてもっとも大きな存在は、やはり施設の利用者である。ここには劇場に作品をかける作り手や観客の他、世田谷パブリックシアターではワークショップやレクチャーも行っているため、その参加者も含まれる。自ら動機を持って劇場を訪れる人を相手としたやりとりは比較的容易であろうが、相手が劇場に何を求めているのかを探るアンテナは常に必要である。上演作品やワークショップの内容、施設のしつらえ、交通の便までを含めると、参加者の全員が100%満足して帰途につくことは難しい。世田谷パブリックシアターの場合は渋谷というターミナル駅からほど近く、アクセスとしては恵まれた立地にある。しかし駅から劇場までの連結は複雑であり、メインエントランスが駅と反対側の大通りにしているなど初めて訪れる人にとって決してわかりやすい構造ではなく、配慮せねばならない点はなお残されている。
他方、劇場に興味を抱いていない人へのアピールも忘れてはならない。その最たるものが近隣の住民であり、世田谷パブリックシアターのあるキャロットタワーの他のフロアに勤める人々である。特にスタッフエントランスからタワーに入り職場へと直行する人々にとって、劇場はエレベーターで通過するだけの場所となりがちである。世田谷パブリックシアターで開催している大道芸のフェスティバルは、最も近くにありながら劇場の存在が意識されにくいこうした人々に対する試みの一環として位置づけられる。このフェスティバルに関しては、世田谷という人口80万都市全ての人に知ってもらうまでには至らなくとも、少しずつ効果があがっていると自負できるものとなっている。ちなみに近隣への知名度を考えると、「世田谷パブリックシアター」という名称は必ずしも有効ではないのかもしれない。「美術館」「文学館」などとは異なり、「パブリックシアター」との名称は聞いてすぐ内実がイメージできるものではないからである。しかし聞き慣れない名称も、好奇心をひくためのフックとしての働きは果たしていると考えられる。
(4) 世田谷パブリックシアターの設立理念と今後の課題
ここで「劇場とは何か」という問いに立ち戻り、世田谷パブリックシアターとは何であったかを顧みると、世田谷パブリックシアターはそもそも新しい公共劇場を目指して立ち上げられたものであった。貸館主体の劇場から脱却し、自ら創造することのできる劇場となることが何よりの目標であり、その運営モデルとして地方の公共劇場にも提示できる存在となることが今後の課題である。設立当初、後に続く創造型の公共劇場がもっと作られるのではないかと思われたが、予想に反して後進は続かなかった。ひとつには財政状況の悪化があり、実現間近にこぎつけても首長の改選で振り出しに戻る例もある。何より、先述のように世田谷は立地の点で好条件が整っていた。地下鉄で何駅かという距離の渋谷にはシアターコクーンやパルコ劇場があり、これらとトライアングルを形成することで集客に好影響が出たのである。そのため世田谷では1つの作品を10公演、20公演と上演することも可能であるが、地方ではどんなにいい作品でも2公演、4公演程度の集客しか見込めないこともある。こうした条件の違いのため、地方の公共劇場からすると、世田谷パブリックシアターは憧れではあっても具体的な手本にはなりえないのかもしれない。しかし、自ら創造できる劇場をつくるという理念だけでも伝播させたいところである。
これらをふまえて考えるに、冒頭の問いに対し、劇場とは人と人の新しい関係を生み出す場所であるという答えをひとつ出すことができる。舞台をつくる人と観客として観る人、客席で観る人どうし、ワークショップに参加する人どうしの関係である。更には劇場と地域の人たちとの関係も含むことができる。劇場があることによって、今までは隣にいてもお互いに気づきあっていなかった人たちがつながりを結ぶ契機をつくることができる。舞台芸術は直接的な経験であるため、結ばれる関係もまた直接的な関係になりやすい。そのような直接的な関係をつくり出せることが劇場のひとつの意義である。また、人と人だけでなく、劇場は地域と地域の関係を結ぶ可能性も秘めている。世田谷パブリックシアターは世田谷という地域と首都圏を結んでいるし、更に首都圏から地方へと手を伸ばそうとしている。それによって地方と地方もつながる可能性ができるし、劇場で生まれた作品が海外で注目を集めれば地域と海外、海外と海外をつなぐこともできる。いわゆるそのようなハブ機能を持つ劇場(仮にハブ劇場と言う)となることが、世田谷パブリックシアターにとって今後の大きな課題となる。ハブ劇場とは必ずしもその一箇所が全てを担うという意味ではなく、様々な人が集まって経験を積み、他所へと出て行く起点となるという意味である。そうした柔軟性を持つものとして劇場の概念をトータルにリデザインしていくこと、その機能を担えるための人材を育成すること。これが今、世田谷パブリックシアターが向かおうとしている方向である。
質疑応答
Q1: 世田谷パブリックシアターで実施されている人材育成に関する取り組みを、具体的に教えてほしい。
A1: 10ヶ月間、フルタイムでのカリキュラムを組み、劇場の運営に携わる研修生の教育を行っている。内容としては公開講座の他、研修生のみが参加するゼミや実習がある。世田谷パブリックシアターの稽古場から上演までの現場に参加し、作業を手伝いながら作品ができる過程を学ぶ実習が、研修生にとってもっとも大きくかつ重要な経験である。
Q2: 上記の研修制度には何人くらいの応募があったのか。
A2: 初年度の説明会には80人ほどの参加者があり、書類選考で20人前後にしぼった後、最終的には6名を採用した。しかしきめ細かい指導のためには人数が多いと感じ、以降は4名程度としている。
Q3: 世田谷パブリックシアターが今後目指すところとしてハブ劇場となることがあげられていたが、それに向けてもっとも重要視している事業は何だろうか。
A3: ハブ劇場という概念は単一の事業のみで達成されるものではないと考えており、些細なことでも劇場にしかできないこと、劇場だからこそできることを積み重ねていくことが目下の課題である。たとえば声を思い切り出すことひとつをとっても、現在の東京ではどこでもできることではない。そうした日常ではなかなかできないことを経験し、そこから楽しみを得てもらいたい。また、芝居の醍醐味は人間が生きていくために大事なことは何かを考えさせられるところにあり、劇場は他者への思いやりを気づかせる場としての可能性を秘めていると考えている。その可能性を広げるために、さまざまな実践を試みていきたい。