『公共劇場の運営 ―世田谷パブリックシアターを事例に―』
Vol.2「開館からこれまでの事業展開について」
2010年5月13日(木) 19時〜21時
矢作 勝義
(世田谷パブリックシアター劇場部)
《所 感》
日本に、いわゆる「公共劇場」が誕生するのは、ようやく1990年代に入ってからのことである。世田谷パブリックシアターが、その後、日本各地に「公共劇場」が成立していくための先鞭を着けた劇場の一つであることについては、今日、異論はないだろう。
パイオニアであるからこそ「公共劇場」の意義を考え、定義し、追求していかなければならない―「劇場」のポテンシャルはどこまで広がるのか、「公共」劇場とはいかなる使命を担うことができるのか。開館以来の事業展開がテーマとなった今回は、これまでのすべての公演事業が、当時の制作エピソードや写真・映像をふんだんに交えて紹介された極めて興味深いレクチャーであった。そして何よりも、事業紹介の端々からは、公共劇場であるからこそできることは何か? を問うてきた世田谷パブリックシアターの「こだわり」とその「進化」の過程がダイレクトに伝わってきた。
記録:秋野有紀(日本学術振興会特別研究員PD・東京大学)
1. 世田谷パブリックシアターの「ソフト」
「公共劇場」であるからこその「ソフト」を追求するということ
世田谷パブリックシアターを例にとり、公共劇場の運営を扱ったシリーズ第二回目の今回は、「ソフト」に焦点が当てられた。本レクチャーでは、オープニングから今日に至るまでのすべての公演事業が、随時、写真・映像付きで紹介された(但し、紙幅の都合により、この記録では転機となった事業に主に言及している)。
2. 事業の展開
1997年度は、18事業である。初年度は、オープニング記念ということもあり、事業が大々的に展開された。
フリーステージ/『ライフ・イン・ザ・シアター』/勅使河原三郎+KARAS『Q』/こどもの劇場5作品/Jazz Collection in三軒茶屋/カンパニー・マギー・マラン『ワーテル・ゾーイ』『メイビー』/ピーター・ブルック『しあわせな日々』/世田谷おもしろ座にフランス現代サーカス団(レ・クザン、モーヴェ・ゼスプリ、トリオ・マラカッセ)を招聘/日・タイ現代演劇共同制作プロジェクト『赤鬼』/『プラトーノフ』/ドラマ・リーディング1〜3
これ以降、シリーズ化していく事業でもあるため、ここで簡単に事業内容を紹介しておきたい。
- <フリーステージ>は、住民や芸術団体に実際に舞台に上がってもらう文化祭のようなものと位置付けられた。文化祭として、世田谷区内のアマチュア団体の文化活動をサポートすることに焦点が置かれた。
- 劇場は、初年度には特別予算がつくのが一般的であり、大抵の劇場はその特別予算を、住民参加型のミュージカルなどの地域住民参加型公演などの制作に使う。しかし、世田谷パブリックシアターは、<こどもの劇場>にこの予算を使い、世田谷区内の小・中学生を数多く劇場に無料招待した。これは、広告を打つことによるのではなく、子どもたちに実際に劇場に足を運び、作品を観てもらうことで、劇場を広く認知してもらうための戦略でもあった。
- <Jazz Collection in 三軒茶屋>は、その後、長い時間を経て日野皓正のワークショップ(以下、WSと記す。)<Jazz for Kids>に繋がっていく。
- <カンパニー・マギー・ミラン>の二作品は、当時の東京国際芸術祭(TIF)と世田谷パブリックシアターが組むことにより、初年度から大々的な招聘事業を成功させた事例である
- 世田谷パブリックシアターは、初年度から、大道芸のフェスティヴァル<世田谷アートタウン「三茶de大道芸」>を行ってきた。その意図は、①劇場の内から外へ、②様々な人を巻き込んでいく、③劇場だけが資金を注ぎ込むのではなく、商店街のパワーを引き入れる、という三点にあった。
- <日・タイ現代演劇共同制作プロジェクト『赤鬼』>においては、当時のタイは、いわゆる現代演劇が未だ確立していなかった。野田がタイ人の俳優たちに演出をつけることとなった。しかし、もともと古典芸能や舞踊の素養と身体能力の高かったタイの俳優陣の演技は、高い評価を得た。
- 海外では、戯曲作成のためなどにリーディングが行われていたものの、当時の日本では<ドラマ・リーディング>は、まだまだ珍しい企画であった。その上、世田谷パブリックシアターが、日本で未上演の海外の作品に焦点を当てる方針としたため、認知度はかなり低く、集客はしばらくの間は伸び悩む。
1998年度も17事業と、規模はそれほど拡大してはいない。この年で注目に値するのは、『不思議の国のアリス』(脚本:宮沢章夫、演出:松本修)と『ガリレオの生涯」(脚本:ブレヒト、演出:松本修)は、現在の自主企画事業の規模と比べればはるかに小規模ではあったものの、初めて自分たちで、ある程度の規模の作品を作る経験を劇場にもたらした。「公共劇場」の使命の一つは優れた作品の創造であると自己認識している世田谷パブリックシアターが、自主制作へと踏み出す最初の大きな一歩となる事業であった。
1999年度は、19事業であった。この年、<こどもの劇場『ネネム』他2公演>で、芸術監督の佐藤信が、3年目にしてようやく、オープニング作品依頼自ら演出に関わり始める。また、身体障害のある者(車いすを使って踊る)とない者とが本当の意味で融合する手段としてダンスの可能性を追求している英国の<カン・ドゥーコ・ダンス・カンパニー>のダンス公演を招聘した。さらに、オルレアン・ダンス・センター芸術監督・振付家のジョセフ・ナジの『ヴォイツェック』は、その後徐々に、世田谷パブリックシアターとの共同制作事業へと繋がっていく布石となる。
海外団体とのいくつかの共同制作が軌道に乗り始め、招聘事業も評判となる一方で、日本の創作劇に対する客足は、いまだ伸び悩んでいた。その理由は、住民とマスコミの、世田谷パブリックシアターに対する認知度が共に低かったこと、それゆえに俳優のキャスティングなどにも苦労せざるを得なかったことなどにあった。
2000年は11事業で、世田谷パブリックシアターは、この年、自らの「公共劇場」としての意義に挑むかのように、松本修演出によるカフカの『アメリカ』の上演を通して、二つの実験に挑戦している。一つ目は、その創作プロセスに関することである。松本は、自らの劇団<MODE>では、ワークショップを通して作品を作っていくという手法をとっている。この手法が、「劇場」という空間を使って、作品を作るプロセスを共有するという新たなコンセプトへと媒介された。そのために、最終的に出来上がった作品を上演するのみならず、俳優とのリーディング、複数回に渡る試作上演、作品の上演へという一連の手順が踏まれた。この公演に主体的に関わった俳優たちは、その後、世田谷パブリックシアターの作品に繰り返し出演しており、世田谷パブリックシアターにとっても、大きな「財産」の形成に繋がったものとなった。二つ目は、劇場空間の大胆な使用方法である。この作品を通して、世田谷パブリックシアターは、この劇場空間をどれだけチャレンジングに使い尽くすことができるかを外に示すことで、自らの公演で劇場を利用する演出家や美術家にインスピレーションを与えることを目指した。これら二つのことは、劇場自らが、その柔軟性・ポテンシャルを公にプレゼンテーションしたという意味で画期的な事業となった。
2001年は14事業で、この年に<こどもの劇場>シリーズの公演として、イタリアから招聘したテアトロ・キズメットの『美女と野獣』にて演出を務めたテレーザ・ルドヴィコとは、その後も共同で作品づくりをを行っていくことになる。またジョセフ・ナジが『ハバククの弁明』の上演で来日した際にWSを行った。このときのワークショップに参加した大駱駝艦の若手ダンサーたちが、アヴィニョンフェスティバルと世田谷パブリックシアターとの国際共同制作舞踊公演『遊*ASOBU』へ出演するなど、将来へと繋がる布石となった。
野村萬斎が芸術監督に就任した2002年は、16事業であった。この年から芸術監督野村萬斎自身が企画・プロデュースし、自らの古典芸術とゲスト・アーティストの芸術性とを対話させるトークとパフォーマンスの『MANSAI◎解体新書』が始まる。
2003年度に事業は、一気に23にまで拡大する。芸術監督である野村萬斎自身が、自ら企画し出演する作品が増大したことや、文化庁の助成制度が大きく変わり、長期的な視野に立った作品を創造できる制度的な基盤が整うため、この傾向はその後も維持されていく。
この年には、劇場が今までに作り上げてきた自らの限界を超え、さらにポテンシャルを増大させる契機となった事業が連続して二つあった。一つはの<日英国際共同制作公演『エレファント・バニッシュ』(村上春樹原作)>では、演出家のサイモン・マクバーニーが原作をもとに、長い時間をかけて俳優達とWSを行い、作品を作り上げていく手法で行われた。もう一つのジョナサン・ケント演出の『ハムレット』は、オペラのセットのような壮大な舞台美術が特徴であり、その仕込みやメンテナンスで徹夜が続いたスタッフは、肉体的にも精神的にも限界の状態にまで追い込まれたという。しかし、膨大な作業を経て集客的にも、作品成果としても大成功したこの二つの公演は、劇場にその基礎体力の大幅な増強をもたらした。
2004年度は、21事業と、前年度の水準をほぼ維持している。この年から、世田谷パブリックシアター・プロデュース・企画シリーズ<レパートリーの創造>が始まる。これは、演劇で活躍している現代作家の作品を演劇とは異なる視点から提示していく試みで、初年度は永井愛の『時の物置』、『見よ、飛行機の高く飛べるを』がとりあげられた。
2005年は、25事業となった。この年はダンス分野で新しい試みを行う。伊藤キムを迎えての『禁色』(三島由紀夫原作)は、世田谷パブリックシアターとしては初めての主催で舞踊作品の創造を行った。さらには、開館以来断続的に<Jazz Collection in 三軒茶屋>などのビッグバンド・ジャズコンサートを実施してきたが、この年から日野皓正による<日野皓正 presents Jazz for Kids>が始まる。これは、中学生の才能を何らかの形で伸ばす事業を行いたいという世田谷区の意向により、始められたものである。
2006年は、24事業であった。初年度から実施している「三茶de大道芸」は、徐々に住民の認知度も高まってきていた。しかし、一般の住民は未だ、劇場の中の有料の公演に気軽に足を運ぶということは難しく、大道芸を見にに集まった住民たちと劇場で行われている有料の公演は有機的な結びつきを見出せずにいた。そのため、劇場内でも大道芸に関連した内容の無料公演を実施し、劇場の中にまで住民をひきこんでいくことが目指された。
2007年は、21事業で、この年は10周年記念事業として『翁・三番叟』、『狂言発表会』をはじめ様々な演目が上演されている。
2008年は、24事業で、この年には<日本語を読む〜ドラマ・リーディング形式による上演〜>が始まっている。現代戯曲を題材に、世田谷パブリックシアターがこれまで協働することの少なかった若手演出家を起用、彼らに対しても新しい体験を生むような俳優のキャスティングを劇場が準備した。
2009年度は、21事業で、この頃になると三茶de大道芸も定着、とても多くの観客が集まるとともに、ボランティアスタッフなども数多く集まるようになる。
3. まとめ
中・小劇場を使って、毎月1作品を創作している新国立劇場などとくらべると、それでも創っている作品は少ないということになるのかもしれない。しかし、国ではなく区が主体となって行っているということに着目するならば、その意義は大きい(今回は時間の関係で、教育普及事業に立ち入ることは出来なかった)。その意義をより深く理解するために、次回は財政システムを検証する。