■『屏風』について■
2001年4月
フレデリック・フィスバック
『屏風』は、途方もない作品です!
96人の登場人物、次々に変わる演技プラン、同時に進行する場の数々、戦場、死者の王国と生者の王国での会話。劇作そのものの中に、上演不可能な要素がたくさんあるのです・・・。
しかしそれは、人形浄瑠璃の観客としての私の経験から解決の糸口を見つけられるのではないかと思いました。

数ヶ月に渡る日本滞在の間に、この戯曲を繰り返し読みました。劇場にも何度も足を運びました。とりわけ人形浄瑠璃のひとつの形である、文楽に魅了されました。まず、言葉と動作を分ける演劇の形態を目の前にした時の喜び、次に、人形と人形遣いの沈黙が支配する精巧な舞台、そして、台詞の全てを担っている語りと浄瑠璃の並はずれた仕事。観客の意識は、舞台から語り手にまで及び、目の前に繰り広げられた上演の要素を集めることに、楽しみを覚えるのです。

私は、意図的に、出演者の数を大幅に減らして『屏風』に着手します。3人の俳優、6人の人形遣い、2人の語り手。上演するというよりも、物語るために、舞台が提供できるあらゆる手段を使おうと思っています。サイードとレイラと母親以外のすべての登場人物を、結城座の人形(たち)と2人の語り手が担当します。
この戯曲の上演を通して、私は第一に、物語を聞く喜びを見つけ出したいと思っています。サイードの物語、レイラの、母親の物語、初演時のスキャンダル、私たちの最近の歴史。この演劇的な怪物を前にして、子どものように、遊んだり、驚いたり、ただ信じるのです。『屏風』は、私にとって「トータル・シアター」の提案のように思えます。ジュネが書いているように、発せられ、歌われるテクストが、舞台上で屏風やスクリーンに広げられる詩的な動きと一緒になる「祝祭」です。ジュネにとって『屏風』は、夢、あるいは演劇観の使者なのです。死者へと同じように生きている者のための、重大な祝祭です。『屏風』はまた、喜劇でもあるのです。

『屏風』は、1966年に、ロジェ・ブランの演出によってオデオン座で上演されました。アルジェリアの独立戦争直後だったこともあり、大きなスキャンダルを巻き起こしました。50年代末に書かれたこの戯曲を最後に、ジュネは文学界を去り、政治活動を始めます。

『屏風』は、舞台のための詩であり、政治の言葉が一言も発せられることなく政治をかき立てるという、この詩的な側面がいいのです。芸術作品は、観客の心と頭に、世界観を示すという点において、政治的なものになりうるのです。

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