公演情報->「エレファント・バニッシュ」 |
世田谷パブリックシアター+コンプリシテ(ロンドン)共同制作
「エレファント・バニッシュ」 (村上春樹短編集『象の消滅』(英語版)より) 公演チラシ(宣伝美術:有山達也)
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Photo by 青木司 「人」や「モノ」が 目まぐるしく動き、「意味」と「カタチ」を 変えていく様子は、初演より明らかに滑らかで 洗練されており、美しさを増していました。・・・・ 「エレファント・バニッシュ」観客の視覚と脳をくすぐる、 他に例をみない作品でした。 (Y.Fさん、28歳) 夜、車から東京の街を見ては感じる、混沌として漠然としたやるせなさ。焦燥感。なのに傍からそれを見ている自分の目はとても冷静だ。やや難解な印象と共に遊び心と冷めた視点の共存した村上春樹が描く世界とマクバーニーの視線。「エレファントバニッシュ」を見てそれがどこかで繋がった。 (M.Sさん、28歳) 現代の「TOKYO」に住む人々の内にある心の闇を外国人の視点から描いてみせる。その視点が共感できるものであろうと受け入れ難いものであろうと、この試みを目撃することは私たち現代の日本人にとって意義深いことであると思います。もちろん、出演者たちのアクロバティックな身体表現も見ものです! (M.Mさん、22歳) 初演と再演を見た上で感じたのは、1年間が経過した今でも、脈々と流れる茫洋とした現実感である。この世界は現実なのか、それともどこかで組み込まれた「現実らしいもの」なのか。録画ビデオ、ライブ映像、そして生身の役者から発せられる3次元のリアリティ。これらを通して、自分自身の存在に自信が持てなくなっていた。私が見ているものの境目はどこなのか。混乱している自分がいた。 消えたのは巨象ではなく、現実に今、生きているという虚像なのである。 (かつをさん、36歳) 日々進化していくまさに現代の人間の舞台が観ることができて幸せだった。 (T.Yさん、19歳) 斬新な演出とセットに衝撃を受けました。今まで観ていた作品とはぜんぜん違い演出にはあらゆる可能性があるということを実感させてくれた作品です。オープニングもこんな始まり方があるんだと全てが驚きの連続でした。まるでジェットコースターに乗っているような気分であっという間の95分でした。 (Yさん) 村上春樹の世界が、見事に舞台化されていた。今まで本で読み、頭の中で想像してきた村上春樹の世界が、目の前にあるという不思議な体験。 サイモン・マクバーニーが演出したことにより、日本の芝居とはかなり雰囲気の違う、異質な印象を受けた。もちろんそれは不快なのではなく、誤解を恐れずに書くと「奇妙」なのだ。そして素晴らしく格好良かった。(R.Oさん、22歳) 出演者の演技力だけで成り立つ演劇ではなく、画像、音響など様々な技術を通してそれぞれのスタッフが参加する、真のコラボレーションとしての演劇が、これほど見事な成果をあげた舞台を見たのは、私にとって初めての経験でした。 (M.Kさん、48歳) 「象」はいったいどこにいってしまったのだろうか。どうしてあの女性は幾日も眠ることができなかったのだろうか。解明されることのない、迷宮入りのミステリー小説を読んでしまったような感覚。そして、予想もしない手法で予想もしないことが展開していく。フライングする男は夜中に妻とハンバーガ屋を襲撃する。水のイメージと冷蔵庫のイメージが作品の無機質製をさらに際立たせていた。「象」の消滅はほんとうにバランスの問題だったのだろうか。それとも、いつのまにかなにかを消滅させてしまう、人間社会へのアイロニーなのか。 (C.Kさん、26歳)
昨年夏、コンプリシテの演出家サイモン・マクバーニーと共に、世田谷パブリックシアターが世界に放った話題作『エレファント・バニッシュ』が、今年、再び世田谷パブリックシアターからワールド・ツアーに旅立ちます。 6月26日(土)〜7月11日(日)の東京公演の後、ニューヨークのリンカーンフェスティバルに招聘され、さらにロンドン、パリほかでの公演が予定されています。大絶賛された昨夏のロンドン公演に続き、今年も同じ主催者(バービカン劇場)の招聘で、1ヶ月にわたる長期公演を行なうのは、日本発の舞台作品としては特筆すべき稀有なこと。視覚的のみならず、そこに描かれた物語が、言葉の壁を乗り越え、見事に伝わったことが実証されたと言えるでしょう。まさに世界的な注目を集めている作品といえます。今年は、さらに洗練されたスタイリッシュな舞台として『エレファント・バニッシュ』をお届けします。
サイモン・マクバーニーは、1998年の『ストリート・オブ・クロコダイル』来日公演をきっかけに、世田谷パブリックシアターで日本人俳優と断続的にワークショップを行なってきました。<日本文化を読み解く>というテーマの下、当初、谷崎潤一郎のテクストを中心に進めてきましたが、ワークショップを重ねるにつれ、マクバーニーのみならず日本人の俳優でさえも、自分が日本の歴史や文化について知らないことが多いという事実に直面することになったのです。そこで、過去とは分断されたかのように見える<現代>の日本を出発点に舞台をつくりたいという欲求が高まり、村上春樹の作品と出会うことになりました。 欧米でも人気の高い村上春樹の作品は、国内でこそ<日本人離れしたポップな感覚>が漂う作品として受け取られていますが、マクバーニーは村上作品が、ユニバーサルでありながらも<非常に日本的>だと語っています。 例えば、外国から来る人々は、東京が他の多くの大都市と同じ消費社会でありながらも、高精度に統制され、同時に、その中に小さな畳の空間を抱えている都市であることに当惑することがあると言います。マクバーニーは、西欧人が是と非、善と悪というアリストテレス的二元論で物事を判断するとすれば、一方、日本人は<世界を統一された、集合的なもの>としてみていると考えています。彼は、<不可解な出来事>と<現実>とが必然的につながる村上作品の中の<見なれた世界でもあるが、同時にまったく異質な世界>に、<現代>の日本を重ね合わせます。 さらにマクバーニーは、「村上は根本的に見方が違っていても(あるいはそれゆえに)、すべての人を蝕む病について語っている」と、村上作品にあるテーマの普遍性を指摘します。 村上春樹の作品に登場する人々は、非常に慌しくそして単調な日常を送っています。しかし彼らが外の世界に見せている自分は<仮面>にすぎず、それぞれが抱える<隠された主観的世界>と現実世界の歪みの中で、身動きがとれずにいるようにみえると、マクバーニーは考えています。こうしたことから生じる、現代の都市に生きる人々が根源的にかかえるこうした<疎外感>や<不安>を、村上作品は見事に掬い上げている点に、マクバーニーは強く惹かれました。この不安は、世界共通の感覚であることを感じ取ったからです。何の変哲もない日常的な都市生活のなかから飛び出してくる非日常。これらの出来事によって、現代の断絶された消費社会に住むということがどういうことなのかという問いに迫ったのが『エレファント・バニッシュ』です。
サイモン・マクバーニーと日本人俳優のコラボレーションは、10週間もの長期にわたり、村上春樹の短篇「象の消滅」「パン屋再襲撃」「眠り」の3篇を触媒にして、昨年、『エレファント・バニッシュ』が誕生しました。 物語はある日、突然、動物園の象舎から象が消えてしまうというシュールな現実を目の当たりにした主人公が、その不可思議な日常を綴った「象の消滅」。深夜、激しい空腹に耐えられずパン屋を襲撃するという行動に駆り立てられた新婚の夫婦を描いた「パン屋再襲撃」。17日間、一睡もできずに「アンナ・カレーニナ」を読み耽る歯科医の妻を描いた「眠り」。語り手の<僕>が遭遇する日常の中の<非日常性>を軸に、マクバーニーと俳優たちがテクストを一つ一つ掘り起こし、鍛え抜かれた俳優の身体を通して、村上ワールドを再現してゆきます。 今回演出家の要求を満たした俳優たちは、一人芝居「ソロ・アクト・ライブ」シリーズでマイムや小道具を使ったパフォーマンスによる個性的な世界を築き上げている吹越満、そして遊◎機械/全自動シアター解散後、女優として新しい道を歩み始めた高泉淳子、ミュージカルからストレートプレイまで幅広くこなす宮本裕子、演劇集団「円」の期待の若手瑞木健太郎、ジャック・ルコック国際演劇学校で学び、パリでマイムを中心に活動を続ける望月康代、ワークショップ開始当初より作品創りに関わり続けてきた高田恵篤、演劇集団「円」の実力派で、常に新しい活動にチャレンジを続ける立石凉子の7人。いずれも「演劇」というジャンルを多角的にとらえた、個性的な活動を展開している俳優陣です。マクバーニー演出作品の魅力である視覚的な美しさ、ことに俳優の流麗な動きに、さらに、変幻自在な舞台空間を創りだすルパート・ボールの映像が加わった見事なコラボレーションは、演劇界はもちろん、映画、美術、文学とさまざまな分野の人々から大きな関心を集めました。 「村上の想像力が生み出した世界を統一するテーマを見事に具現化してみせた」(The Guardian紙) と言わしめた本作品を、是非ご期待ください。 【出演者メッセージ】
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